意識を束ねる、不眠症、発達障害、うんち、ちんち

意識を束ねる

 要するに集中するということなんだけど、集中するというのは実際のところどうすることなんだ?ということが最近何となくわかってきたので書き残す。こんなことって普通にできる人にとっては最初から当たり前にできるし、「集中する」が分からないって何?と思うかもしれないけど、いろいろな事に関して「それって実際どうやるんだ?」となり、上手くやれない側の人間の書いたものとして読んでもらえるといいと思う。

 岡潔という、明治~昭和に生きていた日本の数学者の本より、以下引用。

 視覚の場合の例を一つあげてみよう。以前、女子大の数学教室が独立した建物になっていたころ、職員室は二階で、だれも時計を持っていなかったから、いま何時か知りたくなったら、いちいち下へ降りて入口にかかっている時計を見て来ていた。数学の問題に考えふけりながら時計を見に行くと、いろんなことがある。熱中ぶりのいちばんひどいときは、何をしに行ったのか忘れて、便所へ行って小便をして、そのまま上る。考え込み方のもう少し浅いときは、時計があることだけを見て上る。文字どおり時計を見てくるわけだが、これでは仕方がない。もう少し浅いときは針の位置だけを見て、それを記憶する。部屋へ戻ってから、どちらが長針、どちらが短針とだいたい推理して、それで何時何分かわかる。このときは記憶だけして、あとで大脳前頭葉を使って判断するわけである。いちばん浅いときは、時計を見てその場で時間がわかる。そしてこのときは、何のために時計を見たかも、ちゃんとわかっている。大脳前頭葉による判断がずっと働いているわけである。
 こういうふうに、私は大脳前頭葉を働かせなければ判断できないように訓練されているので、数学に没入しているときは、それ以外の外界の景色などが目にはいろうとはいるまいと、全然無関心になっている。完全な精神統一が行なわれ、外界と私との交渉は、判断の前で断ち切られているといえる。そしてこのときには、のどかな春のような喜びが伴い、いろいろなことがわかってくる。これが情操型の発見なのである。
 これでわかるように、私は数学の研究に没入しているときは、自分を意識するということがない。つまりいつも童心の時期にいるわけである。そこへ行こうと思えば、自我を抑止すればそれでよい。それで私は、私の研究室員に「数学は数え年三つまでのところで研究し、四つのところで表現するのだ。五つ以後は決して入れてはならない」と口ぐせのように教えている。

岡潔―日本のこころ p117~118

 岡潔という歴史に残る偉大な数学者の語ることなので、ちょっと普通から離れすぎていて圧倒されてしまうところがある。岡潔の語るところによる「精神統一」は、大脳前頭葉というのがキーになっている。上の文は、この脳部位を一つの対象へ働かせている際には「それ以外の外界の景色などが目にはいろうとはいるまいと、全然無関心になっている」と言っている。
 この本の他にも何かの本で「意識(か精神か、細かい言い回しは忘れた)を束ねて一つの対象へ仕向ける」みたいな表現も読んだと思うんだけど、こういうものからヒントをもらって少しずつ体感として理解できてきている。
 よくわからないものを理解するためにイメージの力を借りるというのはとても大事なことだと思っている。岡潔が言っているような状態、このイメージを僕なりに言ってみると「あちらこちらに散らばっていきがちな意識を束ねて(ブラシの毛のような見た目?)、一つの的へガッと向ける」という感じで、このイメージを端的に言い表したものとして「意識を束ねる」という表現が僕の中で残っている。
 こう書いてみるとやはり、最初からできる人からすればある種のカルチャーショックを受けるのかなと思う。僕としても、言葉のうえでは集中ってそういうことだよねという理解はあったのだけど、言葉のうえで理解していることと実際にどうやればいい、の間には深い溝があって、僕は実際にどうすればいいのかがずっとピンと来ず、やるべきことに集中するってどうすればいいんだというのは難しい問題だった。ブラシの毛を束ねてガッが僕にとってはよくハマるイメージとして役に立っている。僕は30代半ばなのだけど、我ながら大変に進捗が悪い。

不眠症

 ところで僕は不眠症だ。入眠が難しい。具体的には、ベッドに入ってから2時間ほどは寝付けない。この間、スマホを見る等はせず、ずっと考えている。僕がやたらと文章を書いているのはこの時間による部分が大きいと思う。ひどいときには12時にベッドに入って、ずーっと考えていたら朝の4時を過ぎている。外が薄明るくなり鳥が鳴き始める。ここまで来るといよいよ今日だった昨日が閉じていく、明日が起動する、僕は何をやっているんだろうと、閉じていく昨日へ取り残されていく焦りが出てくる。そこでようやく真剣に入眠へ向き合うようになり、いつのまにか寝付いている。
 寝付けない間にも早く寝ないととは思ってるんだけど、この段階の真剣さまでは行っていない。要するに真剣に入眠へ向かえば寝られないこともないのだけど、ついつい何かを考えてしまうというのが問題だった。ここでブラシを束ねる。"睡眠"へガッ!である。マジで我流にもほどがあるなと思うけど、これで遅くとも2時間以内には寝付けるようになった(そんなに劇的ではない!)。鳥の声がうるさくて、なに勝手に鳴いてんだ!と思うようなことはとても少なくなった(そもそもベッドに入るタイミングが遅いときはそうなる)。
 あまり劇的な効果を生んでいないというのは、「ついつい考えてしまう」という意識の散らばり力があまりにも強いこと、僕のブラシ束ねがまだ上手くないということ、などだろうなと思ってる。そもそも意識の量があまりにも多い状態では束ねるもくそもないぞという実感があり、最近は意識のムダ遣いを導入している。思考へ使ってしまうと興奮して眠れないので、興奮しない刺激によって多すぎる意識をそこで浪費しようという作戦。具体的にはちょっと大きめの環境音を流す。配信の垂れ流しなどはやはりだめで、人の話し声は興奮に繋がりやすい。本当にちょっと大きい環境音なので、寝付けそうになったり、寝付いてからふと目覚めたときなどに「うるせえな!」とややイカりながら停止する。そのときに「うるせえなだって。自分でやったことなのに、変なの」というかすかなメタ認知も働いていることとかが、なぜか記憶に残っている。一連のことが何だかおかしな気がするけど、最近は日中に元気にやれることが多い(寝付くときに時計を見ていないので、寝付くまでの時間はよくわからない)。

発達障害

 発達障害の中の、ADHDについて。注意欠陥・多動性障害。症状は大まかに、不注意、多動性、衝動性とのこと。ちなみに僕は一度チェックを受けたことがあり、ADHDではないとのことだった。ADHDの薬を飲むと、世界がクリアになったり頭の中が静かになったりするらしい!変なの!
 本当にざっくりのイメージとして、ADHDはまさに上で言っていたような、意識の量が多すぎて収拾がつかないとか、ブラシを束ねるのが上手くできないとか、そういうことなのかなと思ってる。好奇心として、ADHDの人に一回岡潔の本を読んでみてほしい。僕が言っているブラシがどうのよりも、偉大な数学者の書いた文章をそのまま読んだ方が、岡潔の言う「精神統一」がどんなもんかがわかると思う(「そこへ行こうと思えば、自我を抑止すればそれでよい」という↑で引用した一文も、本を読めばどういうことを言っているのかわかる)。正式に障害として扱われているものにこういうのを薦めるのもどうかなとも思うけど、ADHDの人というのは今までの人生で積み重ねてきた自分を制御するコツやらで、何とか障害と付き合っている人が多いようだ(薬で頭が静かになることについて、それぞれ想いがあるそう。あと薬が効かないなど)。そのコツとしての岡潔。全体として書かれている内容も面白いので、気が進めばぜひ。

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