2024年11月
理性/意志/帰責/合理性/論理/権利/心身二元論
最近も方々からいい影響をいただいている。直近では人間がなぜこうなのかという領域のことをよく考えているように思う。たとえば、人間から力強さを奪うものって何だろうかといえば、↑にあげたような概念群がなかなか悪さをしているなあと思う。社会を安定的に構成するために重要なものが多く、こういうのを悪魔化レベルで突き放すのはとてもマズい。ただこういった領域の中で正しさうんぬんばかり考えた先にはガサガサ殺風景の心象世界が待っている。正しさの議論というのは、その内側のものを肯定するあまりに反動で外のものを無価値化するみたいな凶暴な側面がある。この外にあって否定・攻撃の対象となっているものの中には、人間の精神にとってかなり重要なものすらも含まれているだろうと思う。解体、弱体化、空疎化、乾燥化と、別に常にこう作用するってことでも無いと思うけど、こういう側面は確かに存在する。
人間が力強さを取り戻すにはどうすればいい?っていう内容として、↓の本はかなり良いのでおすすめ。
すべらない話のサイコロ
最近はなんかしらイメージをこしらえて利用することが増えたかもしれない。すべらない話のサイコロは多面性のメメントとして持っている。人間の頭の上、最近起こった出来事の上、いろんなところにすべらない話のサイコロを浮かばせる。人間は内に持つ性質が、良く発揮されれば長所と映り、悪く出たなら短所と見られる。長所と短所は表裏一体というのは僕の中ではこういう、根源たる性質は同じでその時の外的条件等によってそれぞれに発揮されるという理解になっている。どっちも常にあるっていうよりその根源が常にあって、その時々でどちらの姿で表出するかが変わる。この短所ほんとにどうしようもないですねえと見えても、外的な条件が変わるとか、自分の中の出力のとこ、出口でのちょっとした調整ってとこで何かよいものが見つかったときに美点に転じる可能性はある。短所まで愛せというのはとても難しいことではあるけど、こう考えれば短所を激しく拒絶するかわりに、うーん困ったねえでぷわあーと世界に苛立ちを吸収させることに成功する時もあるにはある。といったことも含めて、多面性としてのサイコロ。感情が昂ると簡単に一面的・平面的な世界へ連れていかれてしまうから持っておく。
巨大な質量を持つ物体のゆっくりとした運動
同じくイメージの話。ニュートン力学において、運動エネルギーは1/2mv2で表される。質量と速度により規定される。速度は二乗されエネルギーへ関与する。そのため人は速く動くものが良いっしょとなりやすい。遅く動くものは地味なので興味が向きづらい。が、巨大な質量を持つ物体がンンーーーーーーー……って感じでゆっくり動いている場合も、これは大変大きなエネルギーを持っている。ここに目を開くのが大事なのではないかということを思っている。具体的には例えば、基本的な生活の要素を整えることもそう。ジジイババアが口を酸っぱくして言う鬱陶しいあれというのがまさにこういうものなのかなと最近思う。そういうものがどっしりと安定して巨大な力をもって人間を押し進める。ほかにも継続は大事だよとか小さいことを大事にしろよとか感謝忘れちゃだめだよとか、そういうのはダサくて鬱陶しくてそんなの知らねーよ!的なものだけど、巨大な質量のゆっくりとした動き、この運動のエネルギーと思えばなかなか侮れない。
白銀ノエルの『ours』
ノエルのオリジナル曲はいいのが多いなと思ってるんだけど、その中で一番好きなのがこれ。11/24のノエルの生誕ライブ(年1でVTuberが今日は私が主役!ってやれる1時間ぐらいのライブ)があって、その終わり際にサプライズ的にこの曲が歌われて、うお!?となって勢いでほかの部分も含めてこのnoteを書いてる。(時間が足りなかったり他に書きたいことがあったりでnote公開は11/30になった)
ノエルは他のホロライブメンバーからの評として「優しい」「聖人」といったものがしばしばなされるんだけども、この曲はそういうノエルの、やわらかく温かいものを他者へ向ける・他者と共有するみたいな、彼女の持つ善性のうちのそういった部分が抽出されて作品として形にされていて、とても良い。ノエルのこういう美点を作品にすることができたらどんなに良いだろうと願った人でないと作れないだろってつい思っちゃうんだけど、たぶんクリエイターがたまたまファンだったなんてことはほとんどの場合ないだろうから、この辺どういう風に発注して、どうそれを形にしてるんだろうかってとこは不思議に感じる。
ノエルはけっこう突拍子もないことを言う激しい部分もあり、そういう所もいい。最近はっきりマ〇コって言った後、マンタって言おうとしたらアンコウと混ざったとか言ってジタバタしてた。マ〇コゥみたいな発音で、正直言いたかっただけだろって思うけど、そうだとしてもやはり人間の多面性ってところに立ち返ったときにノエルの優しくふんわりとした善性というのは確かにそこで綺麗に綺麗に輝いていて、それがoursという作品に結晶してることは素晴らしい。
おちこぼれフルーツタルトED『ワンダー!』
あれ良い曲だったよなあと思い出して最近聞いた。そしたら歌詞が妙にいい。この曲は犬の美徳をやるってことかなと思った。以下一番を抜粋。
言葉を上手に扱えるようになった人間、知性っぽい知性がやれるようになった人間、しかしそれが出来るとしても犬の美徳のほうが人を癒すときがある。そういうものへ敬意を払って大事にできるのは美しい。以下二番を抜粋。
落ち込んでる側から歌っているのが二番。一番のサビ前「だからまかせて!」二番のサビ前「キミはすごいなぁ」両方とも歌詞に込められた情感がとてもいい。メロディーの良さとも融合しているし、サビの歌詞で描写してることがああで、その前にこれらの言葉があるというのも良い。ここにけっこう力がこもってるように見える。
僕はごく小さい頃から犬が好きで、心のどこかしらにたぶん影響してるんだろうなと思う。だから「これって犬じゃね?」って思った。犬のそういうところって紛れもなく美徳だよなあ!
2005年頃のインターネット
そういえばインターネットの雰囲気って当時と今で全然違うよなってことを思い出した。当時はネットを通して世界のどこかに居る全然知らない人の生活が覗けるってのがずいぶん新鮮で変なことに見えた。ブログとか前略プロフィールとかで発信する一部の人を、他の大勢が見る。僕はその頃からネットは基本的にROM専なんだけど、ROM専って言葉自体があの頃のネットっぽいのかなとも思った。ROM専の比率ってたぶん今のほうが低いと思う。今は発信の場がかなり整っていて、誰でも発信する側になれるし繋がり合うっていうものになっている。電車男みたいななかなかエグいのが流行ってたのも、あの頃の空気感としての他人の生活を覗くのが新鮮でっていうのが要素として大事だったのかなと思う。今はもはや受け入れる土壌として、そういうのいいって!みたいになってるかも。今思うと変な感じするけど、当時の僕は普通に電車男おもしれえんだよなあー!と思って読んでた。
その頃ねとらじっていう音声だけの配信サイトがあったなーとなった時、そこで喪女(もおんな)って人の放送を聞いてたことを思い出した。僕が高校生の頃、喪女は大学生だった。妙に落ち着いて話す人だった。喪女は作曲ができた。歌詞をリスナーから募って曲を作って、放送で歌ってくれた。こんな歌うたってたよなーと胸に浮かんでくる。「暗闇のなかー私は彷徨うー」と歌っていた。ねとらじは今の配信プラットフォームみたいに整ってないしなんか陰気なところだし、当時の「知らない人の生活が覗ける」ことの新鮮さもあったりして、個人的には、放送する側と聞く側が寄り集まって、なのになぜだか集まることで寂しさが強調されるような感覚があった。「それでも歩き続けるー」「今日もまた 旅が始まる 目指す場所それはー」「私は願う 君の幸せをー」「約束の場所で 君を待ってるー」その辺のフレーズが残りながら他のとこはあんまり覚えてない。たぶん今検索したって出てこないだろうし、覚えている限りで僕が歌ってネットに残した方がいいんじゃないのか?あれを覚えていて同じように検索する人が辿り着いたならそれはいいことだろう!と思っていたところ、検索したら喪女は今Youtubeで活動をしているらしかった。その歌もアップされていた。聞いた。画面を見つめながら聞いた。僕のこころは濡れた。僕は35歳。喪女は42歳になったらしい。何がっていうのは別にないけれど、おめでとうございます。これからもがんばってください。