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趣味:概念分析という激キモプロフィールの男

こんにちは、智の海ラジオの白米好き担当、菊池です。

突然ですが、僕は陳腐な言葉が嫌いです。嫌いなものについて語ると、モンキー・D・ルフィさんに「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」と怒られてしまいそうなので抵抗があるのですが、どうしても書きたくなったので書かせていただきます。ルフィさん、ごめんなさい。

陳腐な言葉が嫌いと述べましたが、これには理性的な理由が3つと、感情的な理由が1つあります。まずは、理性的理由から述べたいと思います。

ですます調で書くのが苦手なので、以下ですます調をやめますがご容赦ください。

デメリット(1) お決まりの話だと思われて話を聞いてもらえなくなる

一般に、校長先生の話や長期休み前の担任の先生の話、親の小言は煙たがられる。なぜ煙たがられるのか。端的に言えばつまらないからだ。

では、なぜつまらないのか。同じような話をすでに聞いたことがあるので、再度聞く必要性がないからだ。特にファニーでもインタレスティングでもない話を繰り返し聞き続けるのはつまらない。芸人さんの話はファニーだし、何度でも聞ける。知的好奇心をそそる研究者の方の話はインタレスティングなので、こちらも繰り返し聞ける。(後者に関しては1回では理解できないので繰り返し聞くという側面もあるが、今は関係ない)

一般的に親や先生などは常識的な意見を述べるので、それは特にユニークな主張ではない。バチバチに尖った訓示を垂れる校長先生は、面白いかもしれないが校長先生として適切ではないだろう。

「勉強なんてしなくてもいい」「計画なんて立てなくてもいい」などといった逆張り的な主張を校長先生がするのは教育的にまずい。そういうのは、インターネットの人気者が誰に言われずとも勝手にやっているので、先生や親といった「まともな大人」はやらなくてよい。「まともな大人」は「まともなこと」を言うのが仕事だ。

陳腐な言葉はどれだけ正しくても、もう耳に入らない。耳に入らないなら、何も言っていないのと同じだ。耳にふたされることを避けるために、陳腐な言葉は使わない方が良い。

デメリット(2) 言葉に込められたイメージが先行して相手に伝わるため、早合点されて誤解を招いてしまう

これは「ビッグワードを使うな」ということとも関連する。たとえば、「資本主義」「民主主義」「哲学」「カルト」「左翼(あるいは右翼)」といった言葉は要注意単語だ。とてつもなく解像度の荒い言葉なのに、聞き手が勝手に理解したような気になる言葉だからだ。

たとえば、「人生に哲学は重要だよ」という主張があったとする。これを、「人生にはさまざまな問題が起きるので、それらに対処するために過去の哲学者が考えた思想を勉強して人生に応用することは重要だ」と捉えることもできるし、「人生にはさまざまな問題が起きるが、それらに振り回されないために自分なりの芯が通った生き方を確立することが重要だ」と捉えることもできる。

「人生に哲学は重要だよ」の段階で即座に同意をとってしまうと、本当に同意が取れているのかわからない。上記のような食い違いが起きている可能性もある。

こうした言葉が想起させるイメージは、聞き手が生きてきた背景に応じて変化する。不用意にこうした言葉を使うと、こちらの話したい内容が曲解されてしまう可能性が高まる。自分の話を誤解されたいのでなければ、こうした言葉を乱発するのは避けた方がいい。

デメリット(3) 自分の思考が、既製品の考え方に絡め取られる

言葉の豊富さは世界の解像度の高さに等しい。ここでいう言葉の豊富さとは単なる使用可能/理解可能な語彙数の多さだけにとどまらず、適切な言葉を見つけてくる能力の高さも含む。

陳腐な言葉というのは、誰かが考え出してたくさんの人に使われることで、意味が摩耗した言葉だ。最初に誰かが考え出した段階では、世界を見るための優れたレンズだったのだろう。しかし、優れたレンズであるからこそ、多くの人はそれを使いたがる。多くの人が使うようになれば、中には使い方を誤ったまま使う人もいるだろう。すると、レンズはどんどん摩耗していく。こうして言葉の意味は変化していくわけだが、その結果として実質的に何の意味も持たなくなることがある。

たとえば、「資本主義」なんかは社会システムを分類する言葉として優秀だったのだと思う。しかし、今日においては既にその意味のほとんどは擦り切れてしまっている。

「日本で資本主義はこれから先、崩壊していくのか?どう変化するのか?」という問いを立てたとする。ちょっと見では、なかなか知的刺激がありそうな議題だ。

ただ、これは本当にきちんとした問いの形になっているのだろうか。ひとくちに資本主義と言っても、ほとんどの「資本主義国」は資本主義ではない側面もあわせ持っている。インフラ整備や年金などのあらゆる行政サービスは、資本主義的性質から外れている。ものすごく当たり前のことを言うと、世界は簡単に二分などされない。グラデーションの形をしている。

こんな調子なのに、それが「崩壊するのか?」などといった問いを立ててもしょうがない。そもそも現状がどうなっているのかを正確に認識できていないなら、その後に続く問いに意味はない。

これが、既製品の考え方に絡め取られるということだ。意味のない問いを立てては、意味のない思考をぐだぐだと続けることになる。

以上が、僕が陳腐な言葉を避ける理性的な理由だ。

感情的な理由 ブラックボックスを使うのがいやだ

僕はブラックボックスをそのままにして使うのがいやだ。ただ、すべてのブラックボックスが憎いわけではない。許せるブラックボックスもある。

たとえば、僕はスマホの仕組みをきちんとわかっていないけれど日々使っている。この文章を書くために使っているPCの仕組みもわかっていない。では、それらと「言葉」が違うところはどこだろう。それは、思考への影響の強さだと思う。

言葉がなければ考えることができない。スマホやPCがなくても考えることはできる。繰り返しになるが、言葉の豊富さは世界の解像度の高さに等しい。

僕は、思考がブラックボックスによって雑に処理されることへの嫌悪感が強い。多分、ジョージ・オーウェル『1984年』のせいだと思う。

『1984年』は、はちゃめちゃな監視社会が舞台のディストピア小説だ。作中の人物は「ビッグブラザー」によってあらゆることが管理されている。その極北が「ニュースピーク」という言語だ。これは人々の思考に制限をかけるために作られた言語で、極端に語彙が絞られ、合理的で簡単な文法になっている。これによって人々は、行動だけでなく思考までも管理されることになる。究極の管理社会だ。

僕はこれが嫌なんだと思う。だから、思考の基盤になっている言葉に、可能な限りブラックボックスを持ち込みたくない。ブラックボックスな言葉を見つけたら、それを僕が納得できるように概念分析をして説明を作る。

こうして、趣味:概念分析 という激キモプロフィールができあがる。

おまけ

以上、「陳腐な言葉が嫌いだ」という陳腐な主張を長々と続けてきたわけだが、これは自己矛盾だろうか。僕の中では、「陳腐な言葉」と「陳腐な主張」は切り分けられているつもりなので矛盾していない。色々考えた結果として陳腐な主張が導かれることは、嫌いではない。


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