【レビュー】「手袋を買いに」新美南吉 演出:刈馬カオス 朗読:あさぎりまとい・古部未悠 を聞いて
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「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」
もちろん、この言葉は未知と既知との狭間での揺らぎによって生じるものではある。だが、なぜ、同じ言葉を二度繰り返す必要があったのか。ひとつ目とふたつ目で意味合いが異なるからか。それとも、ひとつ目で問われていることを、問いの形式はそのままにふたつ目へとスライドさせて、もうひとつの意味を読み解かせようという試みなのか。ひとつ目の問いが関係するのは、片手だけが人間の手になった子狐が、帽子屋で誤って狐の手を出してしまったのに掴まえられて檻の中へ入れられるどころか、手袋を手に入れられた場面であり、ふたつ目の問いが関係するのは、子狐が人間の母と眠りにつこうとする子の声を聞いて、その光景を母狐と自分の身に重ね合わせる場面である。
ひとつ目の問い。母狐が子狐に帽子屋では必ず人間の手の方を差し出し、二つ(!)の白銅貨を帽子屋に渡すよう言いつけるわけだが、必ずそうするよう強く言った理由は以前に人間の家鴨を盗もうとして追いかけられ、命からがら逃げた経験があるからである。しかし、子狐は誤って狐の手を帽子屋に差し出してしまう。ここで注目すべきは、子狐は母狐の言いつけ通り、「このお手々にちょうどいい手袋ください」と言っているのに対して、帽子屋が渡したのは「子供用の毛糸の手袋」であった点だ。もし、子狐が後で振り返るように「こんないい暖い手袋」をくれたから、「人間はちっとも恐かない」に繋がるのだとしたら、不可解な点が出てくる。もう一度言おう。子狐は、「このお手々にちょうどいい手袋ください」と言ったのだ。狐の手を差し出して。「人間はいいもの」という解釈をするのであれば、人間は「狐の手に合う手袋」を差し出すべきではないか。それがないのであれば、正直に「ない」と答えるべきであろう。等価値による交換が成立していないのだ。子狐は木の葉ではなく、本物の白銅貨を手渡したにもかかわらず。そう、人間は盗み(母狐の経験)や、贈与(木の葉と手袋の交換)に対してだけ排除の心理やシステムを働かせるわけではない。対等な交換ですら成立させることができないのだ。「ほんとうに人間はいいものかしら」
二度(!)子狐は、眩い光によって目が刺されたように感じたり、ものが見えなくなってしまう出来事にも注目しよう。二つ(!)の白銅貨といい、「二」で読み解くようにと促しているのではないか。
ふたつ目の問い。子狐は冒頭から様々な未知のもの(雪の反射やなだれ落ちる雪、星と見紛う町の灯など)に触れていて、母狐からそれがどういったものであるのか(既知)を教えられている。子狐(未知)から母狐(既知)への流れが出来上がっている。しかし、最後にひとつだけその流れが逆転する出来事がある。子狐が手袋を手に入れた帰り道で、人間の母と子の会話を聞く場面である。そのときだけは子狐は、人間の母の子守唄とやさしい声を聞いて、自分がよく知っている母狐(既知)の声と重ね合わせ、声だけでもそれが人間にとっての母という存在だということがわかってしまう。「子狐はその唄声は、きっと人間のお母さんの声にちがいないと思いました。だって、子狐が眠る時にも、やっぱり母さん狐は、あんなやさしい声でゆすぶってくれるからです」はっきりと既知の状態にあると書かれている。ここでひとつ目の問いをスライドしてこよう。交換が等価ではないのであれば、ふたつ目の問いではこうなる。未知と既知の交換は等価ではない。未知(子狐)から既知(母狐)への流れと、既知(母狐)から未知(子狐)への流れは、決してイコールとなることはなく、歪に曲がっているのだ。だから、子狐は帽子屋で、等価ではない交換をされても、それに気づかず、「人間ってちっとも恐かないや」と思ってしまうのである。だから、母狐(?)は子狐にそう言われて、こう呟かずにはいられないのだ。「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」母狐の「まあ!」の台詞の後であるために母狐なのか、子狐なのか、語り手なのか、作者なのか、はたまた読者なのか、一体誰がそう呟いているのかもわからない(未知)の状態で。
この未知と既知との狭間の揺らぎのなかで、人間は生きるしかないのだ。「二匹の狐は森の方へ帰って行きました。月が出たので、狐の毛なみが銀色に光り、その足あとにはコバルト色の影がたまりました」そう、コバルト色の影をあとに残していくようにして。