嘘をフィクションと呼んでしまう人

 1980年代末以降、ゲームやアニメーションなどのいわゆる「オタク文化」を愛する人たちが、
「彼らは虚構と現実の区別がつかないのではないか」
と危惧され、批判されることが何度もありました。

 当初は暴力描写・破壊描写が問題にされ、21世紀にはいってからは、とりわけ男性向けコンテンツにおける女性登場人物の表象が問題にされています。
 具体的に言うと、男性向けコンテンツに登場する女性登場人物の表象が、男性(ひいては社会)の現実の女性にたいする身勝手な空想・期待や呪縛として働くのではないか、と危惧する人がいるのです。そういう表現は規制されるべきだ、という意見もあります(女性向きコンテンツについても同じことを主張する人がいます。楠本まきさんのように)。

 ウェブ上ではこれにたいして、つぎのような反論がされていました──そういうコンテンツを愛好している者こそ虚構(の女性)と現実(の女性)との区別が当たり前についているのであって、そうでない人のほうは、ほかでもない自分のほうが虚構と現実とを区別することに慣れていないからこそ、前記のような頓狂な杞憂を抱くのだ、と。

久住みずく @kuzumimizuku
「ヲタクは虚構と現実の区別がつかない」みたいな昔ながらのコメンテーターの話に「そんなヤツいねーよ!」とヲタクはみんな思ったものだけど、今の萌え絵などの話を見ていると「あれ?もしかしてヲタク以外の一般人は虚構と現実の区別がつかないのか……?」という可能性に気づいてしまって震える。
4:41 - 2018年11月11日

この立場をAさんとしましょう。
 この反論にたいしてこんどは、つぎのような再反論が出ました──「自分は現実と虚構の区別がつく」というのは傲慢であって、〈フェイクニュース〉が横行する現在の世界では、現実と虚構の区別が困難なケースがあると認めるのが知的な態度ではないのか、と。

saebou @Crisstoforou
急にソクラテス風になるけど、「自分は現実と虚構の区別がついている」と考えることこそ知的な傲慢の始まりであって、こんなフェイクニュースの世の中では「現実と虚構の区別が困難な場合があることを認める」ことから知が始まるんじゃないのか。
17:30 - 2018年11月12日

この立場をBさんとしましょう。

 Aさんの主張が現実を正しく反映しているのかどうか、それは僕にはわかりません。

 いっぽうBさんの反論は頓珍漢です。
 この連載の前回をお読みになったかたは、Bさんの反論がどう頓珍漢か、もうお気づきだと思います。

 人間は現実(の話)と嘘との区別がつかないことならいくらでもありますが、現実(の話)と虚構との区別がつかないことはほぼありません。
 なぜなら、まず先に「これは現実の話ではなく、作り話である」ということを納得してから読む(観る)ものとして作られているものをこそ、虚構と呼ぶからです。

 ですから、虚構もフェイクニュース(嘘)も作り話ですが、虚構物語の話題をしているときにフェイクニュース(嘘)の話を持ち出すBさんは、肝心のところを踏み外しています(ただの中年であるドン・キホーテが自分を物語のなかの遍歴の騎士だと思いこんだように、虚構内の表象が読者の現実観に影響することはもちろんありますが、それはフェイクニュースとはまったくべつの話です)。

画像1

 こういうときに譬え話をするのはよくないかもしれませんが、非虚構表象と虚構表象との関係は以下のようになっていると考えられます(マリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』[水声社]の案をパラフレーズしたものです)。

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(1) ほんとうの話(正確なノンフィクション)とは、米国大統領本人がしかるべき権利をもって、正規の身分証を見せてホワイトハウスに入るようなもの。
(2) フェイクニュース(騙しを意図した不正確なノンフィクション)とは、ルパン三世や『ミッション・インポッシブル』のイーサン・ハントが身分証を偽造し、米国大統領に変装してガードを突破し、ホワイトハウスに潜入しようとするようなもの。
(3) 虚構(フィクション)とは、芸人が米国大統領のものまねをしているようなもの。

 構造上、(2)は(1)のふりをするものなので、(1)と(2)の区別がつかないことはよくあります。いっぽう、(3)は(1)でないことを最初から謳っているので、(1)と(3)の区別がつかないことはまずありえません。

 つまり前記AさんBさんの2ツイートのやり取りは、
Aさん「本ものの大統領と大統領のものまねをしている芸人は、ふつうは区別できるものだ」
Bさん「身分証を偽造されたらホワイトハウスのセキュリティだって破られてしまう。だから本ものの大統領とものまね芸人の大統領ネタの区別が困難であることを認めるのが知的な態度だ」
というやり取りになってしまっているのです。Aさんは常識的ですが、Bさんはちょっとなに言ってるかわからない。

 嘘とフィクションをごっちゃにしてしまうと、Bさんのようなことになってしまいます。人間というのはこういう気の毒な「擬似理窟」を運用して、自分でも気づかないうちに論旨をすり替えてしまう痛々しい動物でもあります。

 こういうとき人は、「そのお笑い芸人」がもともと嫌いなのかもしれません。嫌いなものがあるとき、人はそれをまず嫌い、ついで「それを嫌っていい理由=それが「悪い」ものである理由」を後づけで捏造してしまいます(こういった心理については『人はなぜ物語を求めるのか』をお読みください)。

 フェイクニュースがよろしくないものであることは多くの人の一致する意見です。Bさんはフェイクニュースというものの悪評を利用して、フェイクニュースとは共通点のないフィクション内表象を「警戒すべきもの」として提示してしまったのだと思います。
 好き嫌いの感情を理窟でジャスティファイしようとするときに、人が陥ってしまう典型的なパターンです。僕もこれ、やったことがあると思う。気をつけたいです。

 ひょっとしたらBさんは、フェイクニュースというときの〈フェイク〉と、フェイクドキュメンタリーというときの〈フェイク〉とを、混乱しちゃったのかもしれません。このふたつの〈フェイク〉は方向が正反対だけど、深く考えないとごっちゃにしそうな概念です。

 フェイクニュースというときの〈フェイク〉は、正確なニュースを装って騙す意図があります。つまり観た人が正しい報道として受け取ることを狙って作られるものがフェイクニュース。

 いっぽうフェイクドキュメンタリーというときの〈フェイク〉は、用法にブレがありますが、正確なドキュメンタリーを装っている作りものだけでなく、「ドキュメンタリーふうのフィクション」であることを最初から観客・視聴者にわからせたうえで観てもらうことを想定したものもあるのです。このふたつは向いている方向が逆ですよね。

 言っておきますが、
「フィクション内表象がいついかなるときでも、だれにとっても無害である」
などということはありません。
 しかし同時に、Bさんのようにはっきり間違った論旨展開でそれにたいする警戒心を煽るのは、人類の歴史のなかで異端審問所や全体主義的国家がおこなったのと同じ「難癖」「いちゃもん」になってしまいます。

「この文書のここは事実に正確に合致しているが、ここはフィクションだ」
「首相が根拠とした好景気の指標となる数字は操作されたもので、まったくの虚構だった」
などという物言いを日常的に目にしますが、ここまでお読みいただいてわかるとおり、それをフィクションとか虚構と呼ぶのは適切ではありません。「間違い」あるいは「噓」なのですから。

 このように、どれも現実の事態とは違うからといって、間違いとか嘘とか言うべきところを虚構とかフィクションという語を使うのは、あまり聡明に見えません。この人、
「やまとことばより漢語・西洋語のほうが知的な感じがする」
と感じている人なのかな、そんなにやまとことばが嫌いなら「虚構」ではなく「錯誤」「虚偽」と言えばいいのに、漢語に詳しくないくせに背伸びしちゃって、などと思ってしまいます。

(つづく)

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