「虚構と現実」は贋のカップル
新著『物語は人生を救うのか』は全6章、その第2章では虚構(フィクション)の問題をあつかっています。
「虚実」という言葉があるくらいですから、人はつい「虚構(フィクション)」と「現実」を対で考えてしまう傾向があります。
でも、虚構と現実はじつは対概念ではありません。
さて、話は変わる(ように見えて変わらない)のですが、昨秋(2018年秋)、Twitterでこういうツイートがありました。
「虚構と現実の区別がつかない人がいて困る」と言う人自身が、じつは虚構と現実の区別がついていないのではないか、という話はよく聞きます。
「虚構と現実の区別がつかない」ということが問題視されるとき、たいていは「虚構のなかのことを無条件に現実で実現可能だと思ってしまう」、ニアリーイコール「虚構を現実だと思ってしまう」という意味で言われているようです。その逆(現実を虚構だと思ってしまうこと)が論じられているわけではないこと、これは意識しておく必要があります。
さて、先ほどのツイートにたいして、つぎのような意見が出ました。
これを読んで僕は、こう思いました。
「そもそも現実と区別がつかないものを、虚構と呼んじゃダメなんだよなあ……」
だって「虚構」と「現実」は、贋のカップルなんですから。
さて、近刊『物語は人生を救うのか』のもととなった連載『それ、ほんとの話?』で書いたことのひとつに、僕たち人間は、フィクションを前にしたときと、ノンフィクションを前にしたときとでは、取る態度が違う、つまり、両者にたいして期待していることが違う、ということがあります。
このことからわかるもっとも大事なことはなにか。
それは3つあります。
まずひとつめ。
(1)虚構(フィクション)の対義語は現実(リアリティ)ではなく非虚構表象(ノンフィクション=実話とか、日常の報告とか)である。
虚構と現実はじつは対概念ではありません。虚構(フィクション)の対義語は現実(リアリティ)ではなく非虚構表象(ノンフィクション)なのです。そして目下の文脈では、現実の対義語は表象(representation)です。
僕の家にいる猫は現実の存在です。
またあなたが読んでいる
〈僕の家にいる猫〉
という文字も、ディスプレイ上の図形という意味では現実の存在です。
うちの猫を撮った写真や動画も物理的な存在です。
ただし〈僕の家にいる猫〉という文字、猫の写真や動画は、猫それ自体ではありません。それらの文字・画像は僕の家にいる猫をあらわしています。
そういうふうに、なにかべつのものをさししめしている言語表現や画像などを、ここではざっくりと、表象という語で言いあらわすことにしましょう。脳内表象というものもありますが、それを出すとここではややこしいのでおいておきます。
こういった表象は視聴覚刺戟を生み出す存在としては現実に存在していますが、同時に、べつのものをさし示しています。いっぽう、僕の家にいる現実の猫は、べつのなにかをさし示してはいません。
実在しないものを表象することもできます。シャーロック・ホームズは実在しませんが、こうやって言語で表象することができます。
(a)ホームズがその女性、アイリーン・アドラーにたいし、恋に似た気持ちを持っているというわけではない。〔アーサー・コナン・ドイル「ボヘミアの醜聞」[1891]深町眞理子訳『シャーロック・ホームズの冒険』所収、創元推理文庫《シャーロック・ホームズ全集》、8頁〕
という文はフィクションです。
しかしそれがフィクションなのは、シャーロック・ホームズやアイリーン・アドラーといった架空の対象をさし示す語が含まれているからではありません。
たしかに、シャーロック・ホームズもアイリーン・アドラーも架空の人物です。しかしたったいま僕が書いた(あなたが読んだ)この
(b)シャーロック・ホームズもアイリーン・アドラーも架空の人物です。
という文は非虚構言説(ノンフィクション)です。
なお、目下の議論は日常的直感の立脚点(僕たちはどういうふうに感じてフィクションという語を使っているのか)を整理するための出発点、あくまでざっくりとした整理です。
表象なのか「モノそれ自体」なのか、という問は、言語のときにははっきりしているのですが、これが「アニメーション」「ディズニーキャラの着ぐるみ」などになると、ちょっと複雑な話になりそうです。
歴史小説はフィクションだけど、じゃあそれとよく似た、「現実の事件の再現動画」はどうなんだろう?とか、みなさんもいろいろ考えてみてください。
(つづく)
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