『さみしい夜のおやつ〜かぼちゃプリン〜』
両親の大好物であれば、子供は理由もなくそれを好きになる。ということがあるかもしれない。
私にとってそれはかぼちゃプリンだった。秋になって各店が秋の味覚フェアを打ち出すと、コンビニやスーパーから町の洋菓子店やパン屋さんのものに至るまでさまざまなかぼちゃプリンを食べた小さい頃のことを思い出す。
今日買ってきたのは、スーパーで20パーセント引きのシールが付いたかぼちゃプリンだった。
我々一家はたぶん世間ではすごく仲の良い部類に入ったのだと思う。子供の立場からすれば親の過干渉が嫌で嫌で仕方なく、さっさと独り立ちして自由を謳歌したいと思っていたが、家族で外食したり家族で買い物に行ったりした先で「ほんとうに仲良しですね」と言われることが多かった。
仲が良いこと、一緒にいるということはそれだけ物や時間を共有しているということである気がする。家や車といった大きな買い物から、日常的に使用する瑣末な茶碗ひとつ、箸一膳、布団1枚、ポーチ、バック、ボールペンに至るまで、購入までのエピソードの中に家族との思い出が差し込まれることになる。逆に自分ひとりで購入したものは、
「親に黙ってお金を貯めて買ったもの」
「バレたら怒られるからずっと隠していたもの」
という具合に念のようなものが残り、むしろその購入の経緯を克明に記憶している。
父を亡くして辛かったのは、物を使う時そんな具合に家中すべてのものに残されたエピソードを、もう一度たどることになることだった。
記憶のフィルムは巻き戻せても、時間そのものを巻き戻すことはできないと、しみじみ突きつけられる。カップに紅茶を注ぐ時、ひとつ足りないことを思って涙し、買ってくるおやつの個数を奇数から偶数に勘定するようになって泣き、いなくなった後に買ったソファの上で「このソファを知らないんだ」と思って号泣する。
そういう悲しみでしょっぱくなってしまう。それを中和するために甘いものを食べるのだ。
このかぼちゃプリンの味は、父は知らない。食べたかったと思う。筆を取りながら、このパソコンもまた父の知らないものであること、日常のエピソードが変容していくことを実感しながら、私はプリンを食べる。
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