(文)しゃよう
私が敬愛するダサイオサム(ツシマシュウジ)の文章を書く要諦について。
いや、端からディスってる場合じゃないですな…。いやはや人間失格(私がね)。
とか言いながら津軽の斜陽館が旅館をやっていた頃は何度も泊まりにいった熱狂的ファンであります。
夕食は広い玄関を改装し、食堂風にしてある所で摂りますが、夏場なんかは「はい、どうぞ。サービスです。」なんて言いながら、切り分けたスイカを持ってきてくれる。気の利いた旅館でした。
いや、宿泊客全員ですよ。勿論。私だけ特別扱いではありません。特別だったら、もっと素敵な思い出でしたが。
またまた、底抜け脱線ゲーム。軌道修正いたしましょう。
えー、いい文章の書き方、それは彼によれば「短い」ことだそうです。一つの文章が短い。ただし、センテンスをただ放り投げるような文章ではありません。
何がどうしてどうなった。簡潔に示されている文章だそうです。
とにかく句読点だらけでは、いけない。
(この句読点の位置↑、文学的でしょう?)
だからといって句読点だか、アポロストロフィだか分からなくなってるのも’いけない。
難しいですね。
さて、憧れの太宰の言うことだから、素直に言うこと聞いて若い時分に、色々書いてはみたけれど。
これが存外、難しい。
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり。」いや、なんだか長いんじゃねーの?
ホントかよ?でもこれはベルレーヌかなんかの引用。
「恥の多い人生を送ってまいりました。」
いや、いいね。私なんかもっと縮んで、
「恥の人生送りました。」でちょうどいい。
さぁ、何が恥なのかは、他の記事をごろうじろ。
それでは、皆さん、グッドバイ。
(いや、別に玉川上水行く訳では…ま、近所ですけどね。)
近所注意報。
また駄洒落かっ?!
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