鎮丸~野獣跳梁~ ④
薄暗いバーの中。開店直後で、まだ他に客はいない。鎮丸一人である。カウンターに腰掛ける。
「いらっしゃいませ。何にしますか?」
チャイナドレスを着たママが聞いてくる。
「いや、わしは酒は…」言い掛けてぎょっとした。いつかサロンに来た婦人である。
鎮丸は平静を装った。
バックヤードからバーテンが出て来た。青白い顔、こけた頬。鎮丸は再び息を飲んだ。以前、新宿のはずれにあるマンションで対峙した男だ。
鎮丸は椅子から腰を浮かし、ポケットの音叉にそっと手をやる。
「お客さん、飲み物どうしますか?」ママが再び聞く。バーテンダーは黙ったままだ。
何かおかしい。拍子抜けだ。二人とも知った顔だが、別人だ。全く邪気を感じない。
バーテンダーに至ってはむしろカラだ。何の気も感じない。
「あー、ウーロン茶。」鎮丸は絞り出すような声で言った。
ママは、「あら?下戸なの?こんな時間から来るから大酒飲みかと思ったわ!」と笑う。
「ウーロン茶ひとつね!」バーテンに言う。
顔は同じなのに、声が全く別人だ。
バーテンは返事をせずに作り出す。
「全く、この子ったら、愛想がないというか、覇気がないというか…。それじゃ駄目だって常々言ってるのよ。」ママが鎮丸に言う。
ママが続ける。「お客さん、気にしないでね。別に声が出ない訳じゃない、喋れるんだから!」睨むような視線をバーテンに送る。
バーテンは無言でマドラーを回し、鎮丸にウーロン茶を出す。
その時に、微かな声で言った。
「なまえは…。」
(なまえ、と言ったのか?)
鎮丸は名を聞かれても名乗らないことにしている。これは術者の基本だ。
そもそも「鎮丸」が本名ではない。
その時、いつもの声が頭に響いた。
(ちんまる、名前聞かれてるわよ。)
鎮丸は咄嗟にグラスから顔を上げた。
バーテンが口だけニヤリと笑う。
頭の中の声が女から男に変わる。
(ふふふ…そうか、やはり鎮丸であったか。)
(しまった!今の声!『なりすまし』かっ?)気付いた時には遅かった。
「鎮丸、魔界へ堕ちよ。」バーテンが低い声で言う。
「なにっ?!」
鎮丸の椅子の下にぽっかりと穴が空く。
地獄の業火が下で舌舐めずりをしている。
鎮丸は魔界へと落ちた。
「葉猫の元へ行け。急急如律令。」
式神を一人飛ばした。それが精一杯だった。
店のドアが勝手に開いた。
「いらっしゃ…あら?お客さんじゃないの?」ママは怪訝な顔をしてドアを見る。
鎮丸に視線を戻し、「あら、ちょっとお客さん!カウンターで寝られちゃ困るわよ!ウーロン茶で酔ったの?」カウンター越しに肩を揺する。
もはや鎮丸は返事をしなかった。
(to be continued)
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