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白旗

 「お前な、近所だからってホイホイ来るんじゃないよ」
 立派な革張りのエグゼクティブ然とした椅子でふんぞり返るどころか机に雪崩れ落ちそうな体勢のまま、ジャストサイズで仕立てられた黒いスーツをまとった男は言った。
 「なんだよお、久しぶりに寄ったのに冷たいなあ。バレンタインデーだぞ?」
 おれはその机の前で向かい合わせにセッティングされている応接セットのシングルシーターに腰を下ろした。
 壁沿いには数名、スーツ姿とはいえ一般社会ではあまり見ない色柄のものを纏った険のある表情の男たちが並んで立っている。
 奥のキッチンからジャージ姿の若い子がお茶を淹れて、慣れない手付きながら丁寧に盆に乗せて持って出てきた。ちゃんと茶托を置いてからそこに湯呑を載せる。実によく躾けられている。
 「ありがとう」と言うと、ぱっと笑顔になって照れながらぺこりとお辞儀してまた奥に引っ込んだ。
 おれは一口啜って、机の主に声をかける。
 「いやはや。このご時世にまだ、わざわざこんな世界に新たに入ってくる若い子もいるんだね」
 「余計なお世話だよ…」
 全く釣れない様子だが、気にせずおれは鞄から平べったいB5サイズほどある箱を取り出し、その包装を乱雑に剥いでくしゃくしゃ丸めてから蓋を開けた。色も形も様々なチョコレートが並ぶ。
 それを手に立ち上がって、並んでいる男たちに順番に好きなものを取るように勧めた。
 戸惑っている様子だったが机の主が「早く取れ。貰って食って、美味しいですごちそうさまですって言うまで絶対コイツ帰らないぞ」と言うと、口々に「恐れ入ります」「いただきます」と言いながら選び取っていく。
 奥に居たさっきの子も呼んで勧めると「いいんすか?こんなのもらうの、おれ初めてです」と言って目をキラキラさせていた。
「いやぁ、若いっていいねえ。この子と同じ頃にはもう、誰かさんは怖い顔してたもんだけどね」
 そう言いながらおれが残りを箱ごと机の上に置くと耳まで赤くして突っ伏してしまった。
「人前で余計なこと言うな…用事があるなら早く言え…」
 机に近づき、箱の中のチョコレートを一つ摘んで口元に近づける。
「今度ね、模様替えしたいんだけど、長谷がまた専門課程受けに警察大学校行ってて居ないから人借りたいんだよね」
 おれの指を食い千切らんばかりの勢いでそのチョコレートにかぶり付き、一頻り味わって飲み込んでからお説教が始まった。
 「うちはお前専属のなんでも屋じゃねえぞ…てかお前らウチとの付き合いがバレたら不味いから来るなって何度言えば…」
「だって表向きそういう会社もやってるじゃん、貸してよ通常料金で。チップ弾むしさあ。下手なとこ頼んでボッタクられたくないもん」
「だから、そういうボッタクリやってんのがウチみたいなところなんだっての。わかんねえやつだな」
 さっきのジャージの子と、一部の若い奴は遣り取りを見て笑いを堪えていた。
 その様子に気づいた机の主は鋭い目線を飛ばして「お前ら、一旦出てろ」と彼らに命令する。
 上の命令には逆らえず、彼らはそそくさと部屋を出ていった。
 机の主、組長である徳永文鷹は扉が閉まるのと同時に椅子から立ち上がり「いつまでもおれに構うな、関わろうとすんな」とおれに顔を近づけて言った。
その瞬間を逃さず、おれは薄い下唇を啄むように口づける。
身を逸らすでもなく、突き放すでもなく、拒むでもなく、唇は一瞬受け止められる。 
「とか言って、ふみ、まんざらでもないくせに」
 耳元でおれに言われると流石にイラッとしたのか容赦なく肩パンされた。
「いいから帰れ、人は貸さない。必要ならおれが手伝いに行く」
「はは、やった。そうこなくっちゃ」
 おれは箱からとったチョコレートを一個とって口に入れる。
 口いっぱいに満ちた濃厚なヘーゼルナッツの風味を、さっき供された煎茶で一気に洗い流してから「じゃあ、詳細は後ほど」とだけ言い残して鞄を手に部屋を出た。
 通路にはさっき部屋から追い出された連中が並んでいる。
 一番手前に立っていたやや年を食った奴が一歩前に出て頭を下げた。
「あの、先程はごちそうさまでした、美味しかったです」
「はは、さっきふみが言ったの本気にしてる?気ぃ遣わせてごめんね」
 おれは非常階段を降りて、裏の通用口から外に出た。

 * * * * * 
 
 日曜、おれは先日の厄介な客の家を訪れた。
 先日の厄介な客の名前は藤川あきらという。
 本業は医師で学者だが、元々はおれの仕えていた会長ボスの『オンナ』だった奴だ。
 本人が亡くなって暫く経つのに未だ部下だったおれのことを都合よく使おうとし、自宅と新しい事務所が近いのをいいことに、事あるごとに冷やかしに来る。
 立場のある身なんだからもう関わるなと言い続けているが、事務所が自宅から近いからとちょいちょいあんなふうに立ち寄っては頼み事しに来るのだ。
 しかも同性の恋人と暮らしている家に呼びつけたりするもんだから、そいつに鉢合わせたこともある。まあ今日は不在ということだし、流石にそういったことはないとは思うが。
 古びたマンションのオートロックもない薄暗い殺風景なエントランスを抜けて、エレベーターで最上階に向かう。
 玄関扉が他の部屋とは違う、スライドドアに付け替えられている部屋がヤツの部屋だ。インターホンを鳴らすと玄関の扉が開く。
 「あ、来た来た。上がって」
 おそらく起き抜けであろう。パジャマ姿に寝癖でくしゃくしゃになった頭のまま出てきた玲に促されてリビングに行くと、何をどこに動かすか事細かに書かれた図解があり、家具の滑りを良くする板とか作業用のグローブやエプロンも用意されていて、テレビ台周りの電化製品はすべて取り外して除けてあった。
 「じゃ、この通りよろしく」
 「これ全部おれがやるのかよ」
 「まあまあ、おれも手伝うし」
 今日のおれは模様替えということもあって完全に普段着だ。
 淡い色のフーディに黒のスキニーデニム、毛足の長いスヌードとワッチキャップ、コンタクトではなくウェリントン型の黒縁眼鏡、ギラギラした高級時計ではなく視認性と防水重視のダイバーズウォッチ、磨き上げられた革靴ではなく白のポンプフューリー。
 いくら体にピッタリ沿うように仕立てたものでも肩や膝周りの動きやシワの付きやすさ、姿勢に気を使わないといけないスーツはやはり疲れる。
 本当は仕事する時もいつも普段着でいられたほうがいいけど、そうもいかない。体面とか面子とか見栄とか、そういったものが重要な世界だから。
 思えば、そういう普段着で会う相手なんて今やコイツか自分の父親くらいだ。それもせいぜい月イチ程度。それを考えればこういう日があるのも悪くはないのだけど。
 「なーにが手伝うし、だよ。相変わらず人使い荒すぎんだろ…」
 ラグを巻いて部屋の端に寄せ、ソファに呑気に座ってスマートフォンをいじっていた玲を追い落とし、ソファの脚を家具を滑りやすくする板に載せて動かす。
 「そういや、うちの末っ子がお前のこと気に入ったみたいだったぞ」
 「え?」
 パジャマ姿のまま丸めたラグを枕に寝っ転がっただらしない状態で間の抜けた声を出して、こちらを向けた。
 「お前のこと色々訊いてきた。無難に誤魔化しといたけどな」
 「あのチョコ一個で餌付けされちゃったか~心配な子だなあ」
 そこで、玲は特殊とはいえ一応は医療従事者なので打ち明けた。
 「てか、どうもさ、おれは知識ないから言い切れないけど、あれは何かしら発達の遅れがある気がするんだ。読み書きも覚束ないし、抽象的な表現がわかんなかったりとか、指示したこと忘れたりして。よく下の奴らにも怒られてるから」
 「あぁ、なんか歳の割に幼い感じだもんなあ。周りや本人がそれで困ってるなら調べる方法はあるし、意義もあるよ。でも、今までそういう機会なかった訳だし、周りにいじられたりしてなくて、本人も全然困ってる自覚なかったとしたら、下手に受けさせようとすると傷つけちゃうんじゃないかなあ」
 起き上がって玲はカーテンと内窓を開けて、掃き出し窓を開放した。
 日光と外気が一気に入り、舞い上がった塵が陽の光を反射してキラキラ光る。
 そして玲はこたつテーブルからこたつ布団を外してベランダで軽くはたいてから丸めて別室の書斎の奥のクローゼットにこたつ布団を片付けに行く。
 もう暦の上では春で、暖かい日はもう日中はエアコンがなくても過ごせる日も増えた。
 おれも丸めておいたラグを移動したソファの前に敷き直し、こたつで隠れていた細々としたゴミを拾って充電式のハンディクリーナーをかけ、きれいになったラグの上にこたつテーブルを置き直す。
 続けて玲を呼び戻し協力してテレビ台やキャビネットを移動した。
 設置されていたテレビやらゲーム機やら複合機とルーターの接続し直しは玲にやらせて、おれは台所に行く。   
 冷蔵庫の向きを変えたり、分別のため置かれたゴミ箱の位置や並び順を変えたり、棚を並べ替えたりした。
 しばらくして、一通り終えて戻るとリビングに玲の姿がない。
 通路に出てみると、玄関近くの書斎の扉が少し開いている。
 「おい、玲?」
 呼びかけると、何冊かの本を持って出てきた。
 上に載った本を捲りながら歩いてくる玲の顔は、普段のニヤついた表情が消えて真剣な学者の顔になっている。
 「さっきの話だけどさぁ、そういう子って具体的な指示があれば割と動けるんだよね。お茶もちゃんとおいしく淹れれてたし、出し方も出来てた。アレ、教えた人が巧いんだと思う。あの中にちょっとそういう才能がある人がいるんじゃないかな」
 リビングに戻って、テーブルに置かれた本のタイトルを見ると『認知ソーシャルトレーニング』『発達障害者支援者のための標準テキスト』『思春期青年期の知的障害がある人への心理支援』『SST実践マニュアル』と書いてある。
 「そういう子は指示が曖昧だと自己解釈で動いてしまったりする。だから具体的に教えた上で、というのが重要になる。その上で自分のペースでやれることとか、同じことを集中してできる困らない環境を用意してあげられるなら、障害は障害じゃなくなる。それが実行できる立場に、今ふみは居るわけでしょ」
 おれの顔を覗き込む、今まで見たことがない表情に脈が跳ねる。
 「このまま行ってもヤクザとしては下っ端にすらなれなくて、本人もよくわかってないまま兄貴分に何かあった時の使い捨ての駒にされたり首差し出されて終わりだと思う。でも、ふみが持ってる表向きの事業の中で、彼の特性のいい面を活かせる仕事があれば、彼に根気よく付き添える人がいれば、そうならずに済む」
 「セーフティネットになるところがあれば、更生させることも可能ってことか…」
 組織としては、只でさえ入ってくる人間が減っている中でせっかく手に入れた人材を手放すのは惜しい。
 でも、アレが実働に堪えるかと言うとそれは疑問だし、実際本人も反社会的勢力に加入するということがどういうことなのかよくわかっていないまま、居場所がない故うちに辿り着いてしまってる気もするのだ。
 「知覚情報を統合して判断したり推察して筋道を立てて考えるのが難しい子のために、今はこういう指導書やワークブックみたいなのが結構出てるんだよね。彼のような子に向き合うには役に立つんじゃないかと思う」
 「借りていいのか」
 「勿論。あと、本人になんとなく思うところあって検査を受けたいとか支援受けたいって希望するなら、手配するから言って」
 今更ながら、初めておれは玲を尊敬した。
 人に教える仕事をしていながら自分の専門でないことでも幅広く勉強し続けている事も、たった一瞬会っただけの人間にそこまでしようと思えることも。
 なんかもう、脳のキャパが違う。おまけに軽薄なようでいて情け深い。敵わない。
 オヤジも晩年言っていた。
 「次々いろんなことを教えてくれる。玲は本当に賢い、立派になって嬉しい。わたしの先生。わたしの誇り」と。
 しかしおれは、今の今まで人を都合よくアゴで使ってはのらりくらりしているいけ好かないオヤジの元オンナとしか思ってなかった。とんだ腐れ縁だと思ってた。
 妙に整った顔とか漂ってる妙な色気とかが灼き付いて、切るに切れないだけだと。
 「恩に着る」
 「なぁに、こういう事くらいしか提供できるものないからね。あとはカラダとか、ね」
 またいつもの人をナメたような態度に戻った。いつもだったら肩パンしてるところだ。
 「…そういうのはいい…」
 「冗談だよ、じゃあこれ、今日のお駄賃ね。お疲れ様」
 差し出された封筒の中身は見ずに受け取った。手渡された本を入れた紙袋にその封筒を突っ込み、おれは玲の部屋を後にする。
 階下に下りて路地から建物を見上げると、ベランダから玲がこちらを見て手を振っている。
 今度は忘れた頃に「そろそろ本返しに来い」とか言うんだろう。
 顔を上げて舌を出すと、玲はおれを指差して笑った。

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