原 千夏 記憶と表現 #1—現在の表現に至るまでのプロセス
長崎県の旧出津救助院にて、個展を開催する原 千夏(はら ちなつ)。
長崎県諫早市出身で、現在は東京・長崎・パリを拠点に、現代美術家として活動している。
原は、複数の文化が重なり合いながら共存する歴史、環境、社会、場所やかたちに興味を持ち、パフォーマンスや写真、映像、音やインスタレーションを用いた作品を制作。
また、10年以上にわたって、潜伏キリシタン遺物の調査研究を続けている。
2024年10月26日(土)より開催される個展「開かれた窓(La Fenêtre Ouverte)」では、そのリサーチをもとに制作された新作《空想の大陸 —開かれた窓—》を発表する予定だ。
今回は、調査研究や現在の表現に至るまでのプロセスについて話を聞いた。
(監修:原千夏/聞き手・執筆:浜田夏実)
調査研究と作品について
——潜伏キリシタンの調査研究をもとに作品を制作されていますが、調査を始めたきっかけや、作品について教えていただけますか?
2014年から潜伏・かくれキリシタン遺物の「白磁製マリア観音像」について、調査研究を行っています。
キリスト教禁教期の17~19世紀の日本において、ひそかにキリスト教の信仰を続けたキリシタンのことを学術的に「潜伏キリシタン」と呼んでいます。禁教令が解除されてからも、先祖代々の信仰を守っている人々のことを「かくれキリシタン」と呼びます。
わたしは、2011年に長崎県の日本二十六聖人記念館を訪れた際、キリシタンが信仰していたとされる「白磁製マリア観音像」に初めて出会いました。
その美しさに感銘を受け、「もっと詳しく知りたい」と思いインターネットや書籍で調べたのですが、当時はほとんど情報がありませんでした。
そこで、自分で調べようと思い立ち、調査研究を10年ほど続けています。
2022年に制作した《空想の大陸 —記憶の岩—》は、約8年間の調査をもとにした作品で、映像と8チャンネルの立体音響、写真によるインスタレーションです。
かつて信者が多く住んでいた長崎県長崎市外海地区には「祈りの岩」と呼ばれる大岩があります。
潜伏キリシタンたちは、この大岩の下でオラショ(ラテン語の「oratio/祈祷文」に由来する言葉で、聖歌のこと)を口伝し、教会のように用いていたと伝えられています。
この大岩周辺の環境を映像と音で記録し、約250年間にわたる祈りの記憶を、鑑賞者がまるでその場所にいるかのように体験できるインスタレーション空間を生み出しました。
コンタクト・ゾーンの記憶
——調査研究から作品制作に発展していった過程を聞かせていただけますか?
調査研究を行う中で、ある時、非常に興味深い考え方に出会いました。
コンタクト・ゾーンという概念で、メアリー・L・プラットが著書『帝国のまなざし——旅行記とトランスカルチュレイション』(Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation, 1992)の中で提唱したものです。
荒木美智雄編著『世界の民衆宗教』には、コンタクト・ゾーンに関するプラットの見解を取り上げた箇所で、「コンタクト・ゾーンとは、異なる文化が緊密に接する場である」(※)と書かれています。
わたしは、マリア観音像は、長崎というコンタクト・ゾーンで生み出されたものだと直感し、同時に世界各地に近しい事例が他にもあるのではないかと考えました。
そして、コンタクト・ゾーンに現れる美術や文化の衝突に、強く引きつけられました。
また、「調査を行う中で出会った、論文には書くことができない個人の物語(ナラティブ)を残したい」と考え、その過程で様々な表現方法を用いてきました。
たとえば、潜伏キリシタンが厳しい弾圧から逃れる際、自分の頭髪にマリア観音像の手を隠していたというエピソードがあります。
記録には残されていないのですが、人間の本質を表しているように感じられ、2017年にはこの物語をもとにした作品を制作しました。
文化の衝突が起こるコンタクト・ゾーンとしての場所の記憶や、失われてしまうものを記録したいという思いから、調査研究や制作を続けています。
絵を描くことから始まり、パフォーマンス、写真、映像、立体音響などの様々な表現を用いながら、場が持つ力を伝える方法を追求してきました。
その場にいるような体験の追究
——様々な表現を通して、ご自身が考えるリアルを追究しているのですね。表現の原点となったのは、どのような作品でしょうか?
高校3年生の時に制作した海のパノラマの作品です。
長崎日本大学高等学校の卒業制作展で展示した作品で、子どもの頃に家族でよく遊びに行っていた、佐賀県唐津市の虹の松原という海岸の風景です。
中央に地平線があり、空の色が海に反射している様子を描きました。
作品の幅は7mほどあり、屏風で用いられる単位の「八曲一双(はっきょくいっそう)」をイメージした8枚のパネルを使用しました。
過去の卒業制作展に出された作品の中では、最大規模だったとのことです。
展示中の思い出なのですが、一人の男性が、一時間くらいずっと絵の前にいてくれたんです。
今思うと、この作品は、鑑賞者が虹の松原の浜辺を体験できるインスタレーションのようだったと感じます。
当時からわたしは、空間を埋める何か、場が持つ力を伝えるための絵を描こうとしていたのだと思います。
また、この作品を通して、「海はその場に行かないと見られないけれど、作品として表現すれば美術館に持って来ることができる」という気づきも得られました。
何かを体験するためには、現地に行かなければなりません。
しかし、美術の手法を用いれば、場所に依存せずその場にいるような体験が可能になると考えています。
近年制作している作品でフィールドレコーディングによる音を使っているのも、鑑賞者の体験を重視しているからです。
フィールドレコーディングとは、レコーディングスタジオの外で、自然の音や人工音などを録音することを指します。
フィールドレコーディングの手法を活用すれば、たとえば長崎でレコーディングした音を東京に持って来ることもできるのです。
幼い頃から持っていた「わき上がるもの」
——高校3年生の時の作品についてお話を伺いましたが、原さんは高校に通う前から美術に興味を持っていたのでしょうか?
自分の生い立ちを辿ると、長崎という環境でのびのび育ったと感じます。
幼い頃から絵を描いたり工作したりするのが好きでした。
当時から何かわき上がるものがあり、自由帳や友だちのノート、裏が白い片面印刷のチラシなど、ずっと絵を描いていました。
小学生の時は、コンクールなどで何度も賞をもらっていました。
小学6年生頃まで通っていた造形教室は、特に自由でした。
広い工場の跡地で、近くの川で捕まえたサワガニや、繋がれたヤギ・鶏を自由に描いたり、椅子やタペストリーを様々な素材で作ったりしました。
教室では、危険なこと以外は何でも許されていたのです。
東京藝術大学を知ったのも小学生の時です。
母から聞いたのだと思いますが、「東京藝術大学は、日本において芸術を学ぶ最高峰の場所だ」と知りました。
「わたしが東京藝術大学に行ったら嬉しい?」と母に尋ねたところ、「嬉しいよ」と答えてくれたのを覚えています。
母の言葉をきっかけに、東京藝術大学に入学したいなと考え始めました。
その後、中学2年生のある日、美術の授業を担当されていた馬場正邦先生に、長崎日本大学デザイン美術科という美術を学ぶことができる進路があると教えていただきました。
美術の授業では、版画を彫ったり、修学旅行の思い出をまとめた本を作ったりしたことを覚えています。
10代ならではの悩みも多くあり、昼休みは美術室にいることが多かったので、馬場先生が気にかけてくださったのです。
馬場先生にアドバイスをいただいたことで、美術科のある高校で学ぶ道がひらけたのです。
「結果が分からないこと」への挑戦
——東京藝術大学の存在を知り、進学する高校を選ばれたのですね。美術科の高校では、何を専攻しましたか?
中学3年生で、長崎日本大学高等学校 デザイン美術科の説明会に参加した際、加藤千晴先生とお話する機会がありました。
「東京の美術館で見た、伊藤若冲の作品に魅力を感じている」と話したところ、加藤先生が日本画専攻に進むことを勧めてくださいました。
高校に入学してからは、必死に日本画のデッサンや水彩画を学びましたが、東京の美術予備校と同じレベルの授業を受ける中で、次第に絵を描くのが苦しくなってしまいました。
——幼い頃から美術が好きだったと伺いましたが、苦しい時期もあったのですね。日本画の勉強は、その後も続けたのでしょうか?
ちょうどその頃、同校に教育実習生として来ていた、東京藝術大学の学生の方と出会いました。
教官室にあった美術手帖のバックナンバーや、実習生の方が持ってきたモディリアーニについての書籍を毎日読んでいたところ、その方は、「原さんは日本画ではなくて芸術学科に進んだほうがいいかもしれない」とアドバイスしてくれました。
というのも、わたしは幼い頃から目が悪く、モチーフを細部まで観察し描き出すのは、自分にとって難しいことだと感じ始めていました。
小学生の頃も、黒板の字が見えないので、先生の話をひたすら聞いてノートを書いていたことを思い出しました。
とにかく聞くことで情報を得ていたのです。
自分では無意識だったので、目が覚めた気分でした。
高校や東京の予備校の先生からは、日本画のデッサンを評価していただいていましたが、「まだやったことのないことに挑戦したい」という思いがわき上がったのです。
そして、芸術学を学べる大学を目指そうと決めました。
幼い頃から憧れていた東京藝術大学には、武蔵野美術大学を卒業した後、進学することになりました。
コラボレーションする制作方法との出会い
——大学で芸術学を勉強し始めてから、どのような変化がありましたか?
武蔵野美術大学の芸術文化学科では、美術史や理論を学びつつ、授業で自由に制作し、表現する楽しさを再び味わうことができました。
また、ダンスや演劇にも興味があったため、epa!というサークルの見学に行きました。
その当時のepa!は、パフォーマンスや演出、衣装、メイク、舞台美術、照明、音響、広報...という班に分かれて制作を行い、武蔵野美術大学の芸術祭で本格的な舞台公演を行う団体でした。
見学当日に配役オーディションが行われると聞き、即興で踊りました。
すると、重要な役を任せていただけることになり、とても驚いたのを覚えています。
それぞれの班が役割を分担し、全員でひとつの作品に向かって全力で努力した経験は、大きな成功体験となりました。
公演後も自主的に活動したいという思いから、epa!の元メンバーを誘ってパフォーマンスグループ「じゅるりーず」を結成しました。
「じゅるりーず」では、食や日常のコミュニケーションを主題に、布や風船などのオブジェクトを使いながら、舞踏やモダンバレエのテクニックを交えてパフォーマンス作品を制作し、学内や学外で積極的に公演を行いました。
メンバーは、日本画や映像、デザイン、油画、建築など、専攻がまったく違っていたのですが、だからこそ面白いアイデアが生まれていました。
コラボレーションして制作をするうちに、「誰かと一緒に制作すると、作品がどんどん良いものになる」と気付きました。
また、「イメージしたものを実現したい」という思いが強く、協働で制作することで確実に良いクオリティで表現できると実感しています。
——コラボレーションすることで、作品の表現をさらに磨かれているのですね。現在も、協働で作品を制作していますか?
現在制作している新作《空想の大陸 —開かれた窓—》も、様々なアーティストとコラボレーションしながら進めています。
こちらの作品は、今年10月から長崎県長崎市外海地区にある、旧出津救助院にて展示予定です。
旧出津救助院は、過去作の《空想の大陸 —記憶の岩—》の撮影地のひとつで、この場所で展示させていただけることを大変嬉しく感じています。
展示では、《空想の大陸 —記憶の岩—》も併せてご覧いただけます。
わたしが追究している、自分と場と歴史のつながりを、ぜひ会場で味わっていただければと思います。
次回の記事では、《空想の大陸》シリーズについて、詳しくお伝えしたいと考えています。
調査研究や制作風景もご紹介する予定ですので、お読みいただけましたら幸いです。