ホラーは小説に向かない?
X(旧Twitter)で、こんなポストが流れてきました。
削除されてしまいましたが、引用元ポストはこちら。
個人的に、イロイロと思った雑感を。ヘッダーは、エドガー・アラン・ポーの作品『モルグ街の殺人(The Murders in the Rue Morgue)』の挿絵です。史上初の推理小説ですね。でも当時は、ホラー小説の扱い。
①横溝正史の映像と小説
子供の頃は横溝正史作品の大ブームで、映画やドラマで映像化されたそれは、とても怖かったです。ところが長じて読んだ原作小説は、さほどホラー色は強くなく、拍子抜けした面も。
ただ、本陣殺人事件の水車と日本刀、獄門島の鐘、手鞠歌の升と漏斗など、映像化したときにポイントとなる視覚的な仕掛けが、豊富でした。同時に、本陣や犬神家の琴、獄門島の鈴、手鞠歌、悪魔がのフルートなど、聴覚的な仕掛けも多い印象でしたね。
言うまでもなく、漫画には絵はありますが、音がありません。それは弱点ではありますが、同時にマンガでしかできない音の表現があります。上條敦士先生の『To-y』や二ノ宮知子先生の『のだめカンタービレ』、羅川先生の『ましろのおと』など、音楽マンガのヒット作が成立する理由でしょう。
であるならば、絵がなく音もない小説でも、普通にホラー小説は成り立つのが、理解できますね。もちろん、絵も音もある映像表現は、それが得意であるのは疑いないですが、『To-y』のアニメでは、その得意なはずの音をあえて消すことで、印象的な表現に昇華していたように思います。武器は使えばいいというわけでは、ないのです。
②エドガー・アラン・ポー
推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーは、始祖ゆえに推理小説とホラー小説が未分化な時代の小説家で、詩人でした。
史上初の推理小説『モルグ街の殺人』にしても、モルグとは死体置き場の意味で、森鷗外がドイツ語版から重訳したときは『病院横町の殺人犯』との邦題がつきました。タイトルからホラー風味があり、内容も母子の惨殺事件で、密室トリックの最初の作品。
ポーはホラー小説でも『黒猫』や『赤死病の仮面』や『アッシャー家の崩壊』など数々の傑作を執筆しており、むしろホラー作家の側面が。これらの作品は、視覚的表現がふんだんという点で、横溝作品のルーツでもあります。
最初の作品集タイトルが『グロテスクとアラベスクの物語』であったように、もともと視覚的な意識が強い作家で、ロジャー・コーマンによる映像化でも、その映像表現的先進性が、映画という媒体にもマッチしています。
③視覚情報と聴覚情報
また、聴覚的な仕掛けも、『モルグ街の殺人』の、殺人現場から聞こえた謎の外国語や、『アッシャー家の崩壊』で朗読に呼応する謎の音、『跳び蛙』の歯ぎしりなど、作品の重要なポイントでもあります。
ただ、ある方と話していて、小説家や読者の一定割合で、このような視覚的な意識や聴覚的な意識が、スッポリ抜けている人がいると、指摘を受けました。文字を読んでも情景が思い浮かばず、当然ながら文章での情景描写も苦手。必然的に、情景描写は脚本のト書き的になります。
これが映画などの脚本や漫画原作ならば、監督や役者や漫画家が、そこを視覚化してくれるのですが。
たぶん、小説が視覚情報や聴覚情報がないのでホラーに向かないというのは、文字情報から視覚イメージや聴覚イメージを再構築するのが苦手な人の意見である可能性が。議論の前提が、そもそも違うのです。
④GUIとCUIのこと
例えば、現在のパソコンはGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)が主流で、アプリのアイコンをクリックして使う、非常に直感的な作りです。元は、XEROXのAltをルーツとし、Apple社のMacintoshが世に知らしめ。Windows95で、世界に普及しました。
一方、MS-DOSなどの時代はCUI(キャラクター・ユーザー・インターフェイス)で、コマンドラインという呪文のような文字列をキーボードで入力して、動かしていました。現在も、UNIX系はコマンドを用います。
GUIに慣れていると、CUIに最初は戸惑いますが、コマンドの意味などが解ってくると、無意味に見えた文字列も、イメージが湧きます。ウェブデザインも、HTMLやCSSの意味が解ると、その命令文でどのような図形やインターフェイスが形成されるか、イメージがわきます。
してみるとホラーも、小説という形式の問題ではなく、読者や受け手の問題、あるいは創作側の問題ということに、なりそうです。
⑤恐怖は魂が生み出す
話を、始祖ポーに戻して。
視覚的聴覚的な小説の名手であったポーですが、当時のゴシック小説に対して、恐怖とはゴシックの形式が生み出すのではなく、魂が生み出すモノだと語っています(that terror is not of Germany, but of the soul)。
ここが天才作家の慧眼で、そういう視覚的聴覚的な情報を読者に与えれば、自然に感情を揺さぶるモノ(恐怖でも感動でも悲しみでも)ができるわけではなく。それらの要素が、呼び水になって読者の心に恐怖が形成される。
下の図のように、直角二等辺三角形が4個あって、それをバラバラに配置しても意味はなさないのですけれども、組み合わせによって菱形や十字や×印、砂時計型など、「無いはずの図形」が浮かび上がるようなものです。
情景描写は黒い直角二等辺三角形、生み出されるエモーションが無いはずの図形。このイメージがピンとくるかは、人によるでしょうけれど。
⑥プロに説教する素人
要素そのものではなく、要素の組み合わせで感情を揺さぶるモノを生み出すのが、演出と呼ばれるモノなんですよね。そこを指摘されているのが、山本貴嗣先生のこちらのポストです。でも、山本先生が指摘されるように、そこが解らない読者がいるのです……。
例えば、泣き顔どアップのあと、その人物がコッソリ隣の人にだけ見えるOKサインやVサインを見せる、そのカットが入れば、この泣き顔は演技で、本音は別にあると、解る人には解るのですが。涙とサインが、何を意味するかわからない。
あるいは、泣き顔どアップのあと、雨上がりの空に虹が架かるカットが挿入されれば、この人は今はつらくてないているけれど、やがて悲しみを乗り越えて、立ち直るのだろうと、予感する。これが映画で生まれた、モンタージュ理論です。
ところが、そこが解らない人は「変な作品だ」とか「つまらない」とか言い出し、しまいには「この作者下手だ」とまで言い出すんですね。「わからない」はまだ理解できるんですが、自分を基準にジャッジしてしまう。そう、ネットで見かける「プロに説教する素人」の誕生です。
⑦ヴァイオレット・エヴァーガーデン
京都アニメーションの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、言葉と心は必ずしも一致しないことが理解できない少女が、手紙の代筆という仕事を通して、言葉とは裏腹な心がある、ということを学び成長する物語。
「愛してる」の言葉も、恋人同士、父と娘、兄と妹、母と娘、母と息子などで、そのニュアンスは異なることを学ぶ。作中のヴァイオレットと視聴者が、共に学ぶ構造になっているのですね。
その言葉の裏側の意味がわからない視聴者も、ヴァイオレットへの説明で、噛んで含めるように理解でき、でも押し付けがましくない。また、理解力の高い視聴者は、展開を察して楽しめる。二重の意味で、傑作です。
⑧西行鼓ヶ滝
ここで、笑福亭鶴光師匠の落語『西行鼓ヶ滝』をお聞きいただきたいです。これは、摂津の鼓ヶ滝に来た西行法師が、その風景を「伝え聞く 鼓ヶ滝に 来て見れば 沢辺に咲きし たんぽぽの花」と歌に詠んだところから始まります。
しかし急に日が暮れ、一夜の宿を求めた民家の老爺・老婆・孫娘に推敲の余地を指摘され、「音に聞く 鼓ヶ滝を うち見れば 川辺に咲きし たんぽぽの花」と直されたお話です。原話は能楽の『鼓滝』から題材を取っています。
まず老爺は、鼓とは音のするものだから、「伝え聞く」ではなく「音に聞く」の方が良いのではと提案。老婆は、鼓は手で打つものだから「来て見れば」を「うち見れば」に直すことを提案します。孫娘も鼓とは皮を張ってあるので、「沢辺に咲きし」を「川辺に咲きし」にして川と皮を掛詞にしてはと。
・老爺→聴覚的な表現の推敲
・老婆→視覚的な表現の推敲
・孫娘→発音的な表現の推敲
こうやって、ただ寄ってたかってバラバラに修正してるのではなく、それぞれが目的を持っているんですね。そもそも、推敲という言葉が「僧は推す月下の門」を「僧は敲く月下の門」と、月の下の山門という視覚的な情景に、一夜の宿を求める旅の僧が門を叩くという、聴覚的な情報を加えています。
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