自信と嫌悪と承認欲求
chimney.です
なんとか2回目のnote更新するという快挙を成し遂げました、、
かつて別のnoteはやってみたんですが、あの時は1回のみの更新だったので、最長記録ですね
なんてことはない、心の中の話です
近年、SNSが普及して必要以上に市民権を得てしまった「承認欲求」という言葉。
例に漏れず、平成生まれ・生粋の現代っ子・インターネットネイティヴのchimney.こと僕は承認欲求強めの拗らせボーイとして生を受け、今年で24の歳月を数えました。
こんな趣味を抱える前から、なんだかんだと人に認められたい、という欲だけは人一倍強く、悲しいほどに自信はないのに「認められたい」という気持ち一本槍で色んなことに手を出してきた幼少期がありました。結構多くないですかそんな人。
チャレンジの理由は大体、「親に認められたい」とか「親に喜んでほしい」とか、「周りの人に褒めてもらいたい」とかで、「自分がやってみたい」っていうような主体性の無い生き方をしてきて、幼少期に形成された人間性ってのは随分根強いらしく、未だに根本は変わっていない。
思えば、就職先を決めたのも、「スーツを着る仕事に就いたら親が喜ぶだろうと思った」からだった。
物心ついた頃から、自分の「してほしい」をうまく主張できない人間だった。
話に聞くと、僕は幼少期からそうだったらしく、抱っこを求めたことも、おもちゃをねだったこともないらしい。楽ではあったそうだが、寂しくもあったそうな。
そういう意味では、よっぽど成人した今の方が強欲だとも思う。
とはいえ、自己主張が苦手なこと自体は今でもさして変わってはおらず、大事なことから些細なことまで、あまり主張というものをしない。
何か食べたいものを聞かれても、特段無いので合わせる方が互いに幸せだし、行きたいところを聞かれても特段無いのだ。
これは決して、考えることが面倒だからでも、適当に生きているからでもなく、ただ純粋に、自分に合わせてもらうのが申し訳ないのと、誰かの希望に合わせたほうが僕が嬉しいからだ。
ただ、やはりこれは「僕の意志」としてはなかなか認識してもらえずに困ったことも多かった。
実際、友人には「何かないの?」とはよく聞かれるし、かつて交際していた方は、揃いも揃って全員「心が見えない」という理由で振られてしまった。人付き合いは難しい。
話が逸れてしまった。文章作りも難しい。
個人的には、この自己主張の無さの根底には、自分への自信の無さと、自分への嫌悪が多く影響していると思う。
つまるところ、自分の「してほしい」という感情が満たされることに、全く興味が湧かない。
だから、人のことを優先してしまう。
にも関わらず、最近の自分は、ここに来て急に自我でも芽生えたかのように、いろんな気持ちが湧いてきている。
選ばれたい、認められたい、好かれたい、愛されたい
形は様々なのだけれど、幼少期と違い、「誰かを喜ばせるため」の欲求ではなく、「自分のため」の欲求が生まれてきている。
故に、今の自分はあまり好きでない。
嫉妬や羨望といった、今までの人生で最も毛嫌いしていた気持ちが随分と活発に生まれてきている。いまいち受け止めきれていない。
まあ、結局のところ、自分の気持ちは自分の中で折り合いをつけていくしかないのだけれど。
呑気に生きて行くのが、結局1番だよなあ。