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愛と涙の修論指導

だらっと過ごした日曜日。ぼーっと眺めるツイッターに推しのツイートを見る。

あぁ、そうか今日は関西圏でステージあるのかぁ、と。

プロフィールにも書いてはいるが、関西に住んでいた時代があった。大学院生のとき、よく色んな場所にいったし、電車にもお世話になった。大学院生のときにゼミの伝統で「京都に呼ばれしものはやばい」という風潮があったのだ。

大学は兵庫県内にあったが、指導教員の住居は京都。つまり、ゼミの中で指導の目処がつかなければ、週末とかを使って京都に上って指導を受けなければならない、ということなのだ。

ゼロだった先輩もいたが、私はその出来の悪さから2回くらった。
1回は提出するちょっとした論文、2回目は修論のため。

愛のある厳しさを持っている先生だった。嫌いになったことは一度もない。ただ、その厳しさ故に合わない人もいたそう。どう知ったかのルートがちょっと周りと違っていた分、少し免疫力があったのも一因かもしれないが。


気持ちだけの修士(博士前期課程)生活は決して楽じゃなかった。


最初は学部生時代にやっていたことを今までをすべてゼロにされてしまうような発言から始まった。そこから私の修士生活は始まった。とにかくいろんな論文を読み、授業をこなし、ゼミ準備をこなし、嵐の中で発表準備をしたことも。それから少し落ち着いたときに外に出す論文を作ってみないか、という話が出た。

6ページほどの短い論文だった。しかし、その短いエリアの中に入れないといけない情報は多く、それに間に合う研究結果の量が圧倒的に足りなかった。

圧倒的に足りなかったのはリサーチ力だけではなかった。文章力の乏しさもひどいものだった。書けない、書いても自分の表現は指導教員に帳消しされてしまう。そのものの繰り返しだった。

正直悔しいとしか言いようがない。言われることではない、自分が何も成長しなくて結局教員ありきになってしまう自分が、だ。

そう思った矢先、「京都まで論文を持ってきて」と話が。

ついに来たか、と。大体の先輩は呼ばれるときは修論か博論。まさかこのタイミングで呼ばれるとは...。と思った。

そして、指導の日。落ち着きが無かった自分。しかし電車に乗らなきゃいかん。そうして大阪から新快速に乗った。

そしてかれこれ2時間近く指導。もう思い出してもいろいろ言われまくった、論文提出前なのに。という展開。Twitterでその気持ちが溢れてた。帰りの新快速では泣くのを必死に堪えてた。秋の紅葉シーズンに京都から大阪に帰るのはひと仕事のようなもの。とにかく顔を誰にも見せまいと必死にドアに顔を向けるようにした。霞んでその時の景色は見られなかった。

でもこの厳しさを乗り越え、夜通しの作業も経て、論文は無事提出。あとには発表もあったけど、色んな人に気にかけてもらったのが幸い。この論文は数年後、別の人の研究の中で先行例として取り上げられることに。(ちなみに私がその発表した日にも執筆者は居合わせていて、その後の執筆者さんの発表にも居合わせることができました)

ちなみに2回目は年末。修論の提出が近づき始めた前。極寒の京都。その時も時間を書けて構成を再確認し、論文に矛盾等がないかとにかくチェックに付きチェック。このときは辛さも何もなかった。とにかく出さないと終わらないのと、もうだいぶ免疫がついたのだ。そのときには涙目ではない。見えたのは京都から大阪に向かう時の景色。やはり京都を少し離れると新快速の景色はのどかな田園風景が広がる。冬の空に美しく映えていた山崎あたりの風景は忘れられない。

今まで書いたのは修論指導のほんの一部。これ以外にもいい思い出辛かった思い出がたくさんある。ただ、それをまとめると相当な分量になりそうなのでこのへんでとどめておく。

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修論指導の後に何故か撮ってた大阪駅の1枚。京都はもっぱら京都タワーしかない。なぜだ...。