カエルのくに
少女は生まれてから毎日、日がな押し入れの中で過ごしていた。建てつけの悪い襖の隙間からわずかに漏れる光の向こうに、自分を産んだ女と見知らぬ男が裸で絡み合うのを無表情で眺めている。
男が来なくなると女は怒り狂い、少女を引きずり出しては殴る蹴るを繰り返す。女から吐き捨てられる言葉の意味はわからないが、自分を罵っているのだけは感じていた。
女は夜に出かけていく。真っ暗な押し入れの奥で膝を抱える少女の元に、その日、不思議な事が起きた。
「お嬢さん、かわいらしいお嬢さん」
聞いたこともないような珍妙な声音がした。顔を上げるとぶよぶよした小さな生き物が襖の隙間から顔を覗かせている。黒い瞳をぎょろりとさせてその生き物は言った。
「私はカエル。お嬢さん、お名前を教えてください」
少女は口を開いたが、ひゅうひゅうと掠れた音しか出てこない。
カエルは首を傾げる。
「お声が出ないのですか。ああ、よく見れば体中に痣が……なんてことだ、ようやく見つけた花嫁が!」
はなよめ、という言葉は、不思議と聞き覚えがあった。いつどこで聞いたのだろう……
「私は今年中に花嫁を見つけなければ父上に勘当されてしまうのです。お嬢さん、どうか私と共にきてくれませんか。そして私の花嫁に!」
そのとき、玄関先で扉の開閉する物音がした。どすどす、怒りを滲ませた足音が響き、襖が勢いよく開かれる。ぽとりと落下したカエルに気がつくと、女は悲鳴を上げた。立て掛けてあったハエ叩きを振り回す。
「お嬢さん、また来ます。どうかお返事を考えておいてください!」
必死に叫びながらカエルは退散していった。髪を振り乱し、鬼の形相になった女は少女を引きずり出した。
「あんなものを引き入れて、何をしてたんだ!」
少女には相変わらず意味がわからなかったが、胸の奥が、ぴしり、とひび割れていく音を感じていた。頭の中には先ほどカエルの言った言葉がぐるぐると巡っている。
彼のはなよめになれば、自分は、救われるのだろうか……
ぼんやりしている少女の鼻先に女の拳が激突した。衝撃と痛みに視界がゆらぐ。瞬間、意識を失ってしまった。
目覚めたとき、少女は暗い押し入れの奥に転がされていた。どのくらい時が経ったのかわからない。そして目の前に、あのカエルがいた。
「お目覚めになりましたか! よかった、死んでしまわれたらどうしようかと」
小さなカエルはぬめった舌で少女の腕や腹を懸命に舐めている。
「どうしてここまでして、と疑問に思われているお顔ですね……」
少女の内心を見透かしたようにカエルは言った。
「申し上げると恥ずかしいのですが、実は以前に一度あなたをお見かけしているのです。この家の庭先で、水たまりで遊んでいるあなたを一目見たとき、私の小さな心は衝撃で彼方へ飛んでいきそうになりました。あまりに愛らしく、無邪気で無垢で、ああこんな方を花嫁に迎えられたらと強く焦がれていたのです」
なぜだろう。あの女の言葉はちっとも理解できないのに、目の前のカエルの言葉はすんなりと胸に染みこんでいく。じんわりと温かく、少しだけ苦しい。少女は胸をきゅっと抑え、目尻が潤むのをこらえた。
「ところがしばらくするとあなたは庭に出てこなくなった。どこへ行かれたのか、ずいぶん探し回りましたよ。でもようやく見つけられました。こんな暗いところで……きっと醜い魔女があなたのかわいらしさに嫉妬しているのです!」
カエルは小さな水かきのついた手を差し出した。
「さあ、こんな地獄から抜け出して、私の国へ来てください。私の花嫁となり、ゆくゆくは妃として、一生隣にいてくださいませんか」
カエルが言い終わらぬうちに、少女はもう手を伸ばしていた。骨張った細い指先でカエルの手を摘まみ、痣だらけの顔に笑みを浮かべた。
二人は家の窓から外へ抜け出した。外は大粒の雨が絶え間なく降り注ぎ、庭先の土にはいくつもの水たまりができていた。
「こちらから私の国へ行けます」カエルは一際大きな水たまりを指した。「さあ、怖がらないで、私と手を繋いだままゆっくりとお顔をつけて!」
言われるがまま少女はかがみ込み、泥水に思い切り顔を沈めた。ぶくぶく、ぶくぶく……
どこまでも沈んでいく。だが溺れはしなかった。濁った茶色い水の向こうにぼんやりと大きな影が見える。
「あれが私のお城です! もうすぐですよ。きっとみんなも歓迎します」
少女は口から泡を吐いて笑った。生まれて初めて心の底から喜びが胸を突き上げたのだ。
***
都心から離れた小さな古いアパートの庭で、虐待を受けていたと見られる少女が水たまりに顔をつけて溺死していた。母親不在の間に自ら死を選んだようだ。引き上げられたとき、その表情には苦しんだ様子が欠片もなく、穏やかな笑みを浮かべていたという。