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私が考える宗教を必要とする対象者について~宗教施設にて周りに合わせろ、空気を読めと来訪者に強要する人向け~

今回のテーマは宗教形式主義の人に向けて、宗教の役割について
文章を引用して説明したいと思います。

結論としては「心の貧しい人は幸いなり」への誘導となります。

まず、「罪の女」についてルカによる福音書<7章36節>より引用します。

※ここから引用

あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、
そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。

するとそのとき、その町で罪の女であったものが、
パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、
香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、

泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、
まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、
そして、その足に接吻して、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、
「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、
どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。

そこでイエスは彼にむかって言われた、
「シモン、あなたに言うことがある」。
彼は「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、
ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。

ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。
このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。

シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。
イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。

それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、
「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、
あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、
この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。

あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、
彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に
接吻をしてやまなかった。

あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、
彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。

それであなたに言うが、この女は多く愛したから、
その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、
少しだけしか愛さない」。

※引用終了

この文章に出てくる「罪の女」とシモンという人物
イエスをより必要とするのはどちらでしょうか?

次に「見失った羊のたとえ」についてルカの福音書<15:1-7>より
引用します。

※ここから引用

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。

するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、
「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。

そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。
その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、
いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、
『わたしと一緒に喜んでください。
いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、
悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる
大きいよろこびが、天にあるであろう。

※引用終了

取税人や罪人たちとパリサイ人や律法学者
どちらがよりイエスを必要としているでしょうか。

次に悪人正機についてwikiからの引用を行います。

※ここから引用

悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で
重要な意味を持つ思想で、
「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による
救済の主正の根機である」という意味である。

阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、
末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。
よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、
阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。

我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。

1. 自分のやった善行によって往生しようと思うのは、
  阿弥陀仏の誓願のはたらきを疑いの心による。
2.何を行うにしろ我々には常に欲望(煩悩)があり、
  その計らいによる行為はすべて悪(煩悩濁)でしかない。
3.善いことをしようにも、実際には自らの善悪の基準でしかなく、
  本質的な善悪の判断基準がない。

すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、
阿弥陀仏の救済の対象は、
「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。
つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、
一つの善もできない悪人だったと知らされるから、
早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、
「悪人正機」の本質である。

しかしこの事は、「欲望のままに悪事を行っても良い」と
誤解されやすく注意を要する。

※引用終了

以上のように、各宗教においてより救いを求める人々について
言及がなされています。

最後に「レ・ミゼラブル」に登場するミリエル司教についてご紹介します。
wikiより抜粋します。

※ここから引用

ミリエル司教は誰のことも疑ったりせず、誰のことも恐れなかった。
家のドアの閂(かんぬき)や錠前は取り去り、いつでも誰でも
家に入ってこれるようにしていた。

ある夜のこと、ひとりのひどい身なりをした男(ジャン・バルジャン)が
彼のところにやってきて、泊めてくれ、と頼んだ。ビヤンヴニュ氏は、
男に名前もたずねず、まるで昔からの友人のように嬉しそうに
ジャン・バルジャンを招きいれ、彼に食事を提供した。
ビヤンヴニュはこれと言って財産らしい財産は何も持っていなくて、
あえて言えばせいぜい銀の食器くらいのものであったが、
その銀の食器で彼に食事を提供し、もてなした。

※引用終了

悪人の行為を咎めるのは、社会秩序の維持のために必要ですが
悪人を赦す宗教者について、各宗教などは以上の通り紹介しています。

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