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歴史を学ぶ意味
中国の上海にいたとき、街中でたまに差別に遭うことがあった。
「日本鬼子(日本の鬼の子)」という差別用語が中国に存在する。世界大戦時に日本が攻め入り、鬼のように酷いことをしたというのが所以であるらしい。私は鬼滅の刃を見ると、一瞬、薄らとそのことを思い出す。あれは鬼退治の話だが、人間を鬼と表現するなんて、よほど怨念の絡んだ歴史だと子供ながらに理解した。
当時は特に日中関係が悪い時期だったからだろうが、街を歩いていると酒に酔ったおじさんに「日本鬼子」を投げつけるように言われたり、お店に入った瞬間に睨まれてこの言葉で追い出されたり、バスの中でヒソヒソと後ろから聞こえて来たり。
それ自体に、わたしから何か仕返しをしたり、何かを思うことはなかった。それが日常だったし、何かを思っても言っても、一生かかっても越えられない何かがそこにはある。それに、知らない人に言われる分には、私になにもダメージはなかった。
それよりも、同じ外国人や中国の友達と一緒に歩いている時、その友達の方が怒りを露わにして差別用語をかけてきた人たちに立ち向かってくれていた。だからこそ私が怒らずに済んだのもある。私は図らずもそのことでいつも、愛を感じて心を温めることができていた。
*
そんなおり、学校で歴史の授業が本格的に始まった。私の通っていた高校は現地校で、中国の教科書を使って中国語で授業が行われていた。
歴史の授業も全て中国の定めたカリキュラムで行われる。その中にかなりの量の反日教育が折り込まれているのは、今の情勢を見ればわかっていた。それでも、中国の歴史教科書をもらった時の厚さにびっくりしたし、現代史の日本との戦争の部分の多さに、私は辟易としてしまった。そこにはどれだけの人数がどんな殺され方をしたのか、詳細に書かれている。
噂には聞いていたし、分かってはいた。それでも、その章が近づくたびに不安は大きくなった。
その授業のあと、クラスメイトと絶対に気まずくなるんじゃないだろうか。一緒に授業を受ける中には中国の子も、台湾の子も、韓国の子も大勢いる。どう思うだろう。
歴史問題による差別が平気だったのは、知らない人からの差別だったからだ。大好きな友達は差別なんかしないだろうが、気まずくでもなったら…自分の気持ちも保てるだろうか。
中国は社会主義国家で、先生側も内容を曲げたり端折ったりして教えることはできない。それが密告されたりでもしたら...先生は逮捕されてしまう可能性だってある。だから、そのまま教えるだろう。
どうやって、その授業を受けたら良いだろう。
暗澹とした気持ちだった。
その答えが出ないまま、あんまり身が入らない状態で歴史の授業を受け続け、とうとうその章が近づいていった、
ある日。
歴史の授業が始まる前、当時の先生が教室に入ってきてすぐ、教団の椅子に座り、静かに私たちのことを見回していた。
いつもなら、静かにー!始めるよー!と元気よく入って来るところだが、その日は何も言わずにゆっくりと教室全体を見渡しながら、みんなの顔を順番に見ている。
その唯ならぬ空気がだんだんと教室全体に浸透し、全員がゆっくりと静かになって先生の方を向いた。一人一人の顔を見る先生の目は真剣な光があって、私と目があった時、静かにうなずいたような気がした。
ゆっくりとメガネを外し、先生はもう一度こちらを見る。
皆さんは、なんのために歴史を学びますか。
先生は優しい声で切り出した。
歴史という授業は、その意味を見つけ出すためにある授業です。
歴史とは何か。
人の、成功と過ちの記録です。
それを客観的に見て考えることが重要です。
秦の始皇帝のように、人々をまとめあげて国を統一したことで多くの人を救い、豊かにしたのが成功。
そして、先の世界大戦で罪のない人をたくさん殺し、苦しめ続けたことは、過ち。
何故それらを知ることが必要なのでしょうか。
先祖を大事に思うあまり、現代になってもその怒りを代弁し、人を非難するため?
違いますよね。
人間は過ちを犯しやすい生き物だとそこから学び、それを2度と繰り返すことのないためです。
どこの国の何人であっても共に、成長するためなのです。
あの悲惨な世界大戦の終戦の日。
人は、なぜ、戦うことをやめたのか。
勝ち負けの話ではありません。
賢いみなさんは、わかるでしょう。
先祖の悲しみや無念さ、怒りを思うと胸が張り裂ける気持ちは理解できる。でもね、それを現代の人同士でぶつけ合うようなことをしたら、
あの日、戦いをやめた意味がないのです。
この言葉をゆっくりと、噛みしめるように、一人ひとりに届くように、
うなずきながら、目を見て
簡単な中国語を用いながら話しているのがわかった。
何度も先生と目が合う。
もう一回聞きます。あなたはなぜ、歴史を学びますか。
一緒に考え、成長していきましょうね。
そこで先生は言葉を切って、間をおいて微笑むと、それでは前回の続きのページを開いてと言った。
私はジーンと来て、何度も何度も先生の言葉を頭で反芻した。思い出すたびに、どの国の子供にも、もちろん自分の立場にも配慮した言葉だったと染みるように感じ取った。先生だって子供の時に受けてきた教育は反日が大いに入っていたものだったはずなのに。それを超えて、私達に向けてくれた愛の視線。目の前の子供達が今から学ぶ歴史で人を差別することがないようにと、一緒に成長していこうと、手を取ってくれたように感じた。
こうやって差別の輪廻は断ち切られていくんだなとそう感じた。
差別をするのも人間。終わらせるのも人間。
クラスメイトたちも、先生のその言葉をしっかりと噛み締めてくれたのだろう。後の歴史授業のあとも、差別を受けたり気まずくなることはなかった。
先生、愛をありがとう。
それから先、街中での差別はもっと気にならないものになった。多くの友人やその先生がくれた行動や言葉は、大きなお守りとなって私の側に存在してくれていた。私はそのお守りだけを信じ、胸に持っておけばもう怖いものなどなかった。
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