そろそろ2025年の話をしよう
永遠に思われた2024-2025の年末年始も明日で最終日となり、そろそろ今年をどういった方向にしていくか考え始めた。月曜から仕事だし。
去年は小説を書くこと、というか推敲に1年を費やした。
結果として公開するか迷って棚上げになってしまい、表面上の2024年における成果はゼロだ。ただ、まったくのムダだったという後悔の念は弱く、むしろよくもまぁ続けられたものだと呆れ半分、尊敬が半分といったところか。
自分にとっては形にできた喜び、向き合った時間は糧になったし、ずっと心に抱えていたものに一応の終わりを与えられたと思う。それは友人の死であり、私の後悔と混じり合った10年越しの宿題だ。
1年をかけたことで気持ちは落ち着き、年末年始の怠惰に過ぎる時間が、こうして言葉にするのを許可してくれた。注意すべきは根治でなく寛解であるという点だけれども。
2024年の成果を確認して2025年へ渡すとすれば、引き続き別のアプローチで書くことだろうか。残念ながら資格を取るといった、給金に関わりそうなのは今のところ興味がない。スキルアップってなんだ。
今後を考えるなら転職したほうがいい。そうすれば新しいバイクも維持費込みで視野に入るし、引越しだって現実的な話になってくる。身もふたもない話、今の仕事を続けても将来設計にはマイナスだ。
先に控える親の介護や親類への体裁を考え始めると、どうしたって落ち込む。得られなかった子供時代の安寧を、今になって取り返している面があるにせよ、それを10年先まで続けるのは難しいだろう。
つまるところ私は「ひきこもり」なのだ。
一般的な意味でのそれではなく心の状態において、という注釈を付けるのが正しく、棺桶に足を突っ込んだ両親も同じだったりする。家族全員ひきこもり。まさしくサラブレッド。始めて聞いたときパンの種類かと思ったけど。
望遠モードになった話を戻すと、私は小説を書くことに懐疑的なものを持ち始めた。映像や音に依らない文字だけの表現。はたして今の時代に即していると言えるのだろうか。文学フリマが隆盛と耳にしても、いまいち信じ切れていない天邪鬼である。
もちろん文字そして人間の内面を描きやすい小説は、思考という生命活動とセットになっているし、決して廃れることはない。テレパシーが使えなくてよかった。
こうして将来性を考えるのは「次に何を書くか」という課題設定でもあるため、まだ結論を出すには早い。先延ばしをして楽しんでいる面がなくもないけど。
他の事柄に目を移すのであれば、有給を使った四国ツーリングに行こうか検討中だ。
自転車で瀬戸内海に沿って走ったものの、その前の九州と比べれば味わった感が薄い。しかしエンジンパワーを持ってすれば、かなり濃い旅ができるのではなかろうか。
惜しむらくは休みをつなげても6日間がせいぜいで、運賃が4万はかかるという。。。計画だけしてて今さっき調べたら結構キツいな。移動だけで4万となると2週間は滞在したい。
ひとまずwebに書き残しておけるのは以上となる。似たようなことは紙にも書いているけれど、公開という形にすると別の視点が見られるというか。もちろん覆す可能性もあるわけだが。