躾はハンガーで
私が今住んでいるうちはベトナムの集合住宅の4階。
駐車場がないので、バイクを4階まで持って行かないといけない。
バイクの音が聞こえると、私が帰ってきたと思うのだろう、次女が4階の踊り場で迎えてくれる。そこから部屋までの10メートルほどの距離を次女といっしょにバイクを引いて行く。
長女もいっしょにいることが多いが、この日はいなかった。そういうときはたいてい宿題をしている。そして案の定、宿題をしていた。
今日は妻の怒号が激しかった。
私が晩ごはんを食べているときも、妻は怒鳴り、時折叩く音も聞こえてくる。長女がどんな顔をしているのかはわからないが、長女の性格からして全く応えていないと思う。
妻の気持ちはわかる。
私も長女に対してはかなり怒ってきた。最近は長女への日本語教育をあきらめたこともあり、怒ることは少なくなった。宿題も基本的にしなくてもいいと思っているので、勉強についても何も言わなくなった。しかし、それ以外の、例えば言葉遣いや、ごはんの食べ方などには口を出すことはある。
妻は怒りが頂点に達するとハンガーを持ち出す。長女も次女も何度叩かれたかわからない。それを私は止められない。もちろん何度か止めようとしたことはある。しかし、ヒステリー状態の妻には何を言っても意味がない。私は黙ってみているしかない。
私と妻は怒り方が違う。
決定的な違いは引きずるかどうかだ。私は引きずる。だから怒りの対象に対してもずっと嫌悪感が消えない。しかし、妻は違う。妻は怒鳴りながら、ハンガーで娘を叩いたあと、上ずった声で「ごめんね、ごめんね、痛かったね。本当にごめんね」などと言い、娘を抱きしめる。そのあとはねちねち言うことはない。
叩くのはよくないが、引きずらないという点は学んだ方がいいだろう。
体罰は日本にも一般的にあったが、現在はよくないものとされている。とはえ、社会の基準からいけないものとされるようになったのは最近のことなので、実際に人間が社会の要請通りに振る舞えるかどうかは、個人差があるのは確かだ。わかっていてもやめられない。その点を論じるつもりはないが、ベトナムではいまだ手をあげることは、躾としての常套手段であるのだろう。
そういった人の論理は「言ってもわからないから、体で覚えさせる」が大半だろう。しかし、それでうまくいく場合もあれば、そうでない場合もある。長女に関してはうまくいっていないといっていい。「言ってもわからない」し、「ハンガーでたたかれてもわからない」というか「変わらない」、それならもはやたたく意味はない。
それでは妻はなぜたたくのをやめないのか。
それは私がものに当たるのをやめられないのと同じで、単に感情を発散させているからにすぎない。妻はそれに気づいていないのか、認めたくないのか。妻に話すとわかってくれるが、やはりスイッチが入ると止められなくなるのだろう。
「子どもが健康に元気に育ってくれればいい」と心から思える人は尊敬に値する。私はそう思うことはあっても、それを言葉や行動で示すことはできていない。子どもに求めることが、期待してしまうことが多すぎる。所詮は私の子ども、平凡にでも生きることができればそれが最上の極みである。