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なんか1年を振り返ったポエムみたいになってしまった📷

先日入った中華料理屋さんで食べた、あんかけ焼きそば。独りで食事に行くのは平気なので、単独で動く時には、自分の食べたいものを食べる。お店の雰囲気だとか、時間だとか、距離だとか、値段だとか気にせず、自分の、その時の気分に従って、身体に問うて、食べたいものを食べる。

先週くらいから、かた焼きそばを食べたいなぁ〜と思っていた。本当は、長崎にあるような、揚げたパリパリの麺に沢山野菜が乗っかったあんかけを食べたかったのだけれど、ここのお店のメニューにはなかった。

今は、コロナなので会食は全て断っている。外食する時にも、テイクアウトとか、なるべく混み合わない時間帯を選んでいる。

今のわたしは、自分の些細な願いに耳を傾け、忠実に動いている。何が食べたいか、何処へ行きたいか、どういう気分なのか。

これまで、周りの空気を読んで動く方が慣れていた。この状況で、どう自分が動けば事が収まるか、みたいに。ここ数年、変化、変容が激しくて、これまでの自分が崩れてしまったような感覚があった。新しい自分に、なかなか慣れないみたいな、最初はどこか罪悪感を感じていたし、練習が必要だった。

2年くらい前に、重ねて何人かに「で、貴女はどうしたいの?」「帰りたいの?」と、起きた物事に対する、私自身の気持ちを問われた時に、全く自分の気持ちが分からない自分がいた。

こうした方がよい、帰った方がよい、状況を判断して、なるべく事を荒立てない方は分かっても、自分の気持ちというのがイマイチ分からなかった。

そうか。自分の気持ちというのを大事に選択したり、行動しても良いのか、と最近のわたしは気付き始めている。

これまで取ってきた行動は、私の価値観ではなかったかもしれない。そんな風にさえ思える。

コロナ禍と鬱あがり、いうのもあるけれど、この数カ月、私は独りで過ごす時間をとても大切にしてきた。自分の好き、自分の心地よさを、自分で確認する作業みたいに、とことん独りの時間を愉しんでいる。

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このサンタは、去年のクリスマス前に、友人が、お土産に買って来てくれた。「多分好きだと思って」と渡してくれた。わたしは、未だ鬱の波の中にいて、自分の好きをすっかり忘れてしまっていたので、そうそう私は、こういうの好きだったよな、と。私がわたしを忘れても、誰かがわたしを覚えてくれていて、揺り起こしてくれたような感じだった。有り難かった。

それから、そーっと、そろそろ、あ、私は、こういうお店好きだったよな、とか試すように、外の世界に少しずつ出始めた。最初は、周りの景色が自分と解離しているみたいな感覚で、世の中から自分は浮いていて自分の動きや行動が合ってるのか不安だったし、ぼんやりして恐怖感すらあった。

お陰さまで、今、サクサクと何処にでも行けるし、此処へ行きたい、とか願望や希望さえ持てるようになった。

一昨日、新しい2021年の手帳が届いて、2020年の手帳を振り返りながら、こんなこともあったな、とか、苦しかったよな、とか。

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2020年の手帳は、友人が送ってくれたのだけれど、年始あたりは、私は、未だ脳の機能が落ちたままで文字を綴ったりすることが出来なかったので、前半は真っ白。幸い、読むことは出来たので、色んな方のnoteやネットに一瞬救われたり、落ち込んだりした。与那覇潤さんの「知性は死なない」を読んで、こんな方でさえ、こうなるんだ、と少し安心して、どうしたら回復出来るのか、動かない身体の中で思考だけが、ぐるぐるして考えていた。寝ている時だけが休まる時で、起きている間は、思考だけがぐるぐるして、苦しかったな。

本の出版が決まったのは、奇跡みたいな出来事で、もう自分は生きていけないと思っていた日の夜に書き始めて2日で仕上げた原稿だった。出版社さんから出版されるとう連絡のメールが届いた時には号泣していた。まだ身体も頭も、ぼーっとしていて、明日起き上がれるか分からない状態だった。東京へ打ち合わせにと言われたのだけれど、その頃の私は、近所を歩くことさえ出来なかったので、他に理由をつけて、あちらから担当の方がお二人いらして下さった。それから、メールでやり取りを重ねて、郵送業務とか、色々。何度か、東京へ伺わなければならなかったのだけれど、コロナで行けずに済んだ。その頃の私は、コロナという事情に救われた。

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やっと出掛けられた場所。

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まだ外出が少し怖い中、自分を探すように、公園を歩いた。

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久しぶりに行けた畑には、草花達が冬を越して、まるで待っていてくれたかのように咲き誇っていた。

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畑の恵みをいただいて、私は、少しずつ元気になれた気がする。

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久しぶりに器を出して、料理を始めたのもこの頃。

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毎日、海へ行くようになって、日の出を見に行ったり、日傘をさして裸足で砂浜を歩いたりした。

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ただ在るということが、どんなに尊いか、樹が教えてくれた。

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幼き人の無邪気さだとか、童心をもったままの大人にも、生きる栄養だとか光の方向を教えてもらった。

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海の表情が荒れる日も、わたしの体調もひとおもいには上がってはいかなかったけれど、

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色んなことが出来るようになってきた。色んなことが怖くなくなってきた。

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夜明けが待ち遠しく感じるようになったのも、この頃。

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ついこの間まで、目が覚める度に、今日も生きていてごめんなさいって思っていたのに。


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生きているんじゃなくて、生かされて、生きさせてもらっているんだな、と思った。

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内側でも、外側でも、いろんな事が起きて、揺らいだり、ぶれたり、折れそうになることもあるけれど。哀しみを感じたり、怒りだったり、嬉しいと思えたり、気がついたら微笑んでいたり、自分の感情を取り戻せたことは喜びに近い。何も感じなくなってしまっていたから。

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探しているような景色に出逢えなくてガッカリすることもあるけれど、

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いつも此処ではないどこかへ思いを馳せたりしてしまう、わたしだけれど、

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時々、ポーンと観てみたかった景色に遭遇できたりする。

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自分ひとりでは躊躇わってしまう事も、誰かのおかげで、突然すーっと簡単に叶ってしまう事もある。

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この景色を観てもらいたいなっていう人の存在も有り難くて

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独りで居ても全然寂しくない。

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今、確かに、わたしは此処に居る。

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