祖父母を偲んで、書く。
先日、祖父の49日で、お骨を納めた。
祖父が亡くなった日、お葬式、私は、目にした色んな人間模様に疲れてしまった。49日はコロナ禍で、法要も簡素で会食などもなかったのだけれど、叔母がお弁当の手配をしてくれていると聞いていたので、時前に断った。色んな人間模様を見るのが嫌だったから。祖父のことを、心から自分の気が済む形で見送りたかったので、単独で、親戚の人達とは違う時間にお寺に詣った。
どうやら私は、普通の人が感じない部分まで感受するし、言葉の裏を読む。勘が働くし、でも、大抵、当たっている。この前、弟から電話があって話をした。弟から、親戚まわりの現状を聞かれたので、私に見えていることを伝えたら「お前と話してたら人間不信になるわ」と言われた。そうか、普通の人には、そういう風には見えたり、映ったりしないのだな、と思った。
私は、色んな人から聞こえてくることを感受して、人間関係の樹形図がパッと浮かぶから、当たり障りのないように、事がうまく?進むように総合的に判断する。その代わり、自分の思っている言葉は、引っ込める。誰に思っていることを言えばいいか分からないし、言う機会もそんなにない。
祖父は建設業を営んでいた。先に祖母が他界したのだけれど、祖母の入院中から、初めて家事をするようになり、本当によく頑張っていたと思う。他人の愚痴を言ったりしない人だった。考えるより、身体を動かして働く人だった。ベタベタ優しかった訳ではなく、自分の思っていることをあまり言葉にしない人だったし、口数も少なかったけれど、おおらかな人柄だった。
コロナ禍で、家族葬にしたけれど、祖父のお弟子さんがたくさん葬儀に来てくれていた。祖父が建設業を畳んでから、もう20年が経ったにも関わらず、祖父の訃報は新聞掲載など一切しなかったけれど、ご自身が老齢に達しているようなお弟子さんが、たくさん来てくれていた。こちらでは、49日まで、亡くなってから7日毎にお寺へ、故人を偲んでお朝事のお経をあげてもらいに行く風習がある。その7日詣りにも毎回、お寺を詣でて下さったお弟子さんもいた。
祖父や祖母が人に対して、どういう生き方をしてきたのか、見せてもらった気がした。
葬式のあった日、祖父の形見に、私は、弟に、祖父が使っていただろう鉛筆を渡した。鉛筆のお尻に消しゴムがついているような至って普通の鉛筆。祖父は、働き盛りの頃、よく耳に鉛筆をかけていた。図面に何か書いたり、材木に印をつけたりしていたのだろうか。私たちが、夏休みに帰省しても仕事が忙しく、一緒に遊んでもらった記憶は一切ない。けれど、空港に祖母と一緒に毎回迎えに来てくれた。
弟が、電話で「あのさ、お前がくれた、じいちゃんの、あの鉛筆、あれ良かったなぁと思って。俺、毎日仕事に持っていって、筆箱開けて眺めてる。」と言っていた。仕事がキツイ時に、弱音が吐けない時に、きっと彼は、祖父の鉛筆を見つめているに違いない。
祖父が、晩年に造った小さなバス停がある。家屋と違って、バス停は、祖父が独りで作業したもの。そのバス停に、多分、近隣の子ども達?が描いたであろう絵がペンキで描かれてある。私は、辛い時に、そのバス停を見に行く。祖父が積んだであろう、ブロック塀に手を当てる。「じいちゃん 私 がんばるからね」って伝える。
祖父は、建設業を畳んでから、畑に勤しみ、近年は、デイサービスに通うのを楽しみにしていた。目の前に訪れる自分のステージを黙々と全うしたように見えた。立派だったな。90年にあと少し、というところで亡くなった。90年生きていたら、自分で事業を起こす中でも、親戚のことでも、身の回りにも、きっと色んな事があったと思う。
私は、一生懸命生きてきたつもりでも、何も掴めていないような空虚感に襲われることがある。年齢を重ねてきたから尚更、そんなふうに感じる。
自分の内面を見つめると底なし沼にはまってしまうので最近は避けている。外側へ気持を向けるようにしている。noteを長く綴るとどうしても内面に向いてくるので、最近は、疲れているのもあって、シンプルに外側投稿。私がnoteを始めたのは、自分が、躁鬱だという病識を忘れないようにするため。タグを付けることで、忘却を防ぐという策。
自分の病気や、自分というものに囚われ過ぎてもよくないし、他人に軸を奪われて侵食されるのもよくない。混乱して、ぐちゃぐちゃだったけれど、ここまで何とか私は生きてこられた。思うのは、生きているんじゃなく、生かされてもらっているんだということ。
今、私は、自分の未来が読めない。淡々と目の前にあることをこなしている。その先に何かあるのか、ないのか分からないけれど、今は、無理に動かしたりしようとせず、これでよしとしよう。
今日は、久しぶりに早く起きた。だから、こんな時間に、祖父母を偲んで、久しぶりに綴ってみた。