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お陰さま

今日は主治医に会いに行ってきた。主治医によると、前回は5月に会ったらしい。高齢になった主治医に会う前、少し不安になる。主治医が老いていくのを見るのが淋しいのだ。

今日の主治医はハツラツとしていてお元気そうだった。補聴器みたいなのも、老眼鏡みたいなのも身に付けていなかった。主治医の技術を学びに、陪席の先生方が数名来ていた。それも今日の先生を元気にしていたのかも知れない。

わたしは主治医に出逢っていなければ生きてはいなかっただろうと思う。生きていていいのかも分からなかっただろうし、どうやって生きて行けばいいかすら分からなかったと思う。

わたしが今住む町へやって来たのは14歳の時だった。14歳から両親の郷里である祖父母の家に預けられたカタチ。この町へやって来て色んな事がカルチャーショックだったし、わたしは心を麻痺させながら生活していたと思う。その頃の記憶がすっぽり抜け落ちているのだ。祖父母の事は、尊敬しているし大好きだ。また生まれ変わることがあっても彼らの孫でありたい。

だけれど、14歳でこの町にやって来たわたしは、祖父母が居なくなったら、この町に居る意味がないと既に悟っていた。祖父母には、お世話になったし、大好きだったし、無条件の愛情を貰ったと思う。そして、色んな知恵を授かった。だから、最期を看取りたかった。わたしの希望でこうなったと思っている。

時々、ヤングケアラーという言葉を聞くとざわざわする。わたしだけが関わった訳ではないけれど、わたしが祖父母の生活に寄り添っていた期間があまりに長かったから。一緒に居たかったから、居させてもらったけれど、他にも選ぶ選択肢はきっとあった。見えていなかっただけ。見なかっただけ。祖父母が亡くなってから、一部の親戚の対応がガラリと変わったのもショックだった。わたしは利用されていたのかも知れない、そんな風にも感じた。2年前の十五夜の朝、事件が起きて、その時のショックがわたしを書けなくさせた。わたしは自分の言葉を失くしてしまった。

気にしないようにしていても気に障る。家族やたくさんの友人達に支えてもらって何とか持ち堪えた。事は終わったけれど、わたしの頭の片隅では終わっておらず、独りでずっと考えていたのだと思う。意味を。この意味は、きっと生きていくことで、生きていく中で、何十年かしたら解るかも知れないし、そのままかも知れない。この事は、結構もうどうでもいい。わたしは先に進みたいから。

祖父はシベリアに抑留されていた。その当時の話を何十回と聴かせてくれた。祖父が笑うタイミングまで覚えている。話の中には、ロシア兵の話や朝鮮総連の話などが出てきた。満州から引き揚げた祖母も情勢が変わり、いかに苦労して日本へ戻ったか聴かせてくれた。あちらで食べたピロシキや万頭が美味しかったこと、祖母からハルピンなどの地名をよく聞いた。

祖父母が戦禍を生き抜いてくれて、わたしのイノチがある。そんなことを思いながら、今日は主治医の元へ向かった。主治医の医師としての秀逸さと優しさと愛情で今のわたしがある。主治医にわたしを繋いでくれたのは関西在住の遠い親戚だ。その叔母が、子育てを終えてから大学院に入り直し、臨床心理士になった。その過程で主治医の事を学んだらしい。法事の時に叔母に会い、主治医の高名を耳にした。わたしが躁鬱を発症する前の話。その叔母が若年性認知症を患い、施設に入ったと連絡を貰った。その叔母のお陰で、主治医と出逢え、今のわたしがある。

わたしの家族は、家族だけでは成り立たず、外から親戚が入ってくれて、どうにかこうにか家族のカタチを続けて来られた。子どもながらに外から手を差し伸べてくれる人にお世話になって申し訳ないやらで肩身が狭かったのを覚えている。両親は不器用な人たちで、不器用ながらに、わたしを育ててくれたのだと今では思えるようになった。けれど、どうして、自分を生きようとすると家族がいつも壊れそうになるのか理解出来なかったし、どうすればうまく行くのか分からなかった。でも、そんなこんなで、今のわたしの生命がこの世に存在している。親子間で、たくさん傷付いたし、たくさん傷付け合ったかも知れない。

社会に出てから、わたしの不完全さを補ってくれるような素敵な人たちに沢山出逢えた。今生きている方もいれば旅立たれた方もいる。その方達から授かった知恵や愛情がしっかりわたしの身体に流れている。その受けたご恩を何らかのかたちでお返ししたいと常々思っている。今のわたしが在るのは、いろんな人の繋がりだったり、ご縁だったり、数え切れない人たちの苦労に支えられている。

もうすぐ今いる町を離れる。遠くの友人には伝えられていたけれど近くにいる人にほど、伝えづらかった。こんなに良くしてもらって、こんなに支えてもらっているのに捨てるみたいで。やっと最近言えた。その人たちから「オメデトウ」という祝福の言葉ばかり出てくる。

わたしを閉じ込めていたのはわたし自身でもある。鳥籠の鳥になったみたいに感じていた時期もあるけれど、その籠の鍵が開いているのも実は知っていた。

主治医に月末に離島に移住する話をしたらとても喜んでくれた。これからは気疲れがなくなるだろう、そしていい作品が書けるかもね、と仰ってくれた。わたしに書くことを勧めてくれたのは主治医だった。全く信じていなかったけれど。今では書いて生きていきたいと思うようになった。1年くらい書けなくなっていたけれど、どうやら、そこを抜け出せた。

躁鬱があって、死の淵みたいなところに何度か行かされたし、そこから、生きようと思えるまで、そして、実際に生きている実感を掴めるまでだいぶ掛かった。それを何度か経験すると自分を諦めたくなる。躁鬱で、周囲に迷惑を掛けてしまったり、疎遠になった人たちもいる。どう詫びていいかも分からない。ど鬱の時は、外出はおろか、呼吸の仕方も分からなかった。また躁になったら、また鬱がやって来たら、そんな不安もある。

なんでこんな身体に生まれてしまったのか、とか考えても仕方ないことを考えていた時期も長い。結婚もしていないし、子どももいないので、周りの同級生達とは違う場所で生きている。受験での戦に完敗したわたしはただでさえ、学歴コンプレックスに長年苦しんでいた。その矢先にグチャグチャした幼少期の傷が疼き始めて、社会人になってから躁鬱を発症する。こんな将来、予想していなかった。

いつだったか、わたしは、わたしをもう見捨てないとわたしと約束した。は?と思う人も多いだろうけれど、わかる人にはわかると思う。わたしは、わたしと和解したかった。わたしは、ずっと誰になればいいか分からなかった。わたしは、わたしになればいいだけだった。

今日、主治医とそんな話をした訳ではないけれど、人生の第何章かは分からないけれど、もうすぐ新しい生活が始まるのを前に、先生に会っておきたかった。そして、また元気でお会いしたい。

先生に島に行く話をしたら「やっぱり海だよね」と言った。「はい、海です。海と共に暮らしてみたいんです」とわたしは答えた。

別れ際、先生に佐渡ヶ島のお土産を渡した。佐渡で飲んだ清酒「金鶴」。これが美味しくて、先生にも差し上げたくなった。先生が喜んでくれたので嬉しい。

わたしの人生、先生に逢えてよかった。


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