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「美しい」と解釈するまで
自分の変な感覚を文字起こししたいので
書かせてください。
私は、人と話すことが好きです。
話をしながら、
人のことを羨ましいといつも感じて
人のことを褒めています。
ベビーシッターとして働いている私の周りには
ベビーシッターさんだらけです。
毎日、誰かしらと
話をしている私ですが、
話を聞けば聞くほど、
人の努力の過程が美しく見えてきて
褒めずにいられなくなっています。
「あ、そんなところ褒めてくれるんだ」という相手の反応があっても
私からしたら「美しいと感じてしまったから」に他ならない。
履歴書のように
「資格欄」として1つ書かれていたとしても
「きっかけ・取得までの努力・スピード感・高揚感」などが
隠されている訳です。
それを知りたくて、知りたくて、話を広げては「その人の体温」に近いものを感じています。
話しているだけで
「熱」を感じるのはよくあります。
さて前置きはそれくらいにしておいて、
先日のXはこちら
何年経っても
— チャイルドケアさん🐻 (@CC33333333) February 4, 2024
先輩ズラしてるシッターって
気持ち悪いよなって
じぶんのこと思うのは
なんででしょうね?
素直にドヤっていればいいけど、自分のこと美しく感じないのよね
他のシッターさんの
— チャイルドケアさん🐻 (@CC33333333) February 4, 2024
泥沼な努力の姿や経験を
美しく見えて
なぜかそれなりの
努力した自分のことは
苦労して無理して認めようとする(美化して丸め込む)
みんなが思ってるほど
わたしは美しいと認められないけど
きっと誰かも
わたしと似てるんだろうなと思えば、
すこし気が楽になります
結局は「隣の芝は青く見える」
「他人が持っているものがやたらと良く見えてしまうこと」を表すことわざ・慣用句の一つです。 「いいなぁ」と他人をうらやんでばかりいると、自分がみじめになってきて卑屈な気持ちから抜け出せなくなります。
私の場合、
羨ましいと感じたあと、こみ上げてくる気持ちは
卑屈というより「ああ、美しいなー」という
単純な気持ちなのです。
美術館に行って、素敵な絵を見て
「頑張って書き上げた作品は美しいなぁ」と感じるのと同じで
人との会話は、美術鑑賞に近い状態なのでしょうか。
しかし、この流れだと
自分も「美術品のひとつ」だと思いきや、その自覚はなく
他人が美しいと鑑賞する側であり続けています。
私のことを例えるならば
『美術鑑賞を楽しむ人』という作品なのだろうなと
今更感じて納得しています。
人は五感を通じて
経験や知識・情報というフィルターをかけて
やっと「美しい」と都合よく解釈できるのですから
人によって「美しさ」の度合いは違って当たり前です。
だから、
他人が決めた「美しくあるべき」という尺度に合わせる必要はありません。
私はただありのままの皆さまが「美しい」と感じ
いつか自分自身も「美しい」と気付けるようになりたいと思っています。
まとまりなく、つらつらと
文字を書くだけでも、心がすっとしました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。