コミュニケーション

帰り道にぐるぐる考えたことまとめ

忘れないようにね


色々考えた結果、いろんなところで大切になるのはどう考えてもコミュニケーションだということになった

私の中では

どうあがいても人として生きるならだれかとコミュニケーションをとらなきゃなのは言わずもがな、色々な不具合は最終的にコミュニケーションの不具合に帰結するように思う

という結論に


私が思うコミュニケーションというのは「お互いの価値観のバランスを理解しあおうとする営み」です

価値観のバランスというのは、例えば朝は絶対パン派なのか、できればパンがいい派なのか、はたまた絶対ごはん派なのかとか

あとは、恋愛の「恋」と「愛」のどちらに重きを置いているのかとか

これめっちゃ例えばだけど、対話する相手のそういう価値観のバランスを分かろうとする、そして自分の価値観のバランスを伝えようとするというのがコミュニケーションかもしれない

私はよくしゃべるタイプで「コミュ力ある」とか言われたり言われなかったりするけれども、それはマジでよくしゃべるだけ

自分のことを伝えるという意味ではいいかもしれんけれども、相手を理解しようとするところまで達してないなという感じ

コミュニケーションで大事なのは「話す」こととかじゃなくて「対話」みたいなことなのかな~

伝えることをあきらめる、あるいは相手を理解することをあきらめては何もうまくいかない

お互いに常に歩み寄ろうとする気持ちがなければコミュニケーションはとれない、うまくいったとは言えないと思う


コミュニケーションの不具合による色々な不具合というのは、でかいところでは戦争とか

あれはたぶん(別に詳しくないから予想に過ぎないんだけど)、国としての立場とか文化に基づく価値観の相互理解をあきらめた結果なのでは?と思っている

「話し合いで解決すればよかった」というのは小学校の道徳の授業とかでも言ってたような気がするけど、その「話し合い」というのがおそらく私の思うコミュニケーションをとるということだったんだと今は思う

あとは、やっぱり男女間のいざこざもたぶんお互いの性の理解不足が原因じゃないかと思っている

でっかいくくり(女性の社会進出だなんだとかフェミニズムうんぬんとか)でもちっこいくくり(恋人との喧嘩とかどっからが浮気なのか論争とか)でもね

お互いがどういうバランスで何を大切にするのか、何が絶対譲れなくて、何なら妥協できるのか、それを伝え合う、できれば適切な言葉選びで伝え合う

理想に過ぎないけど、そういうことができれば相手に対する理解が進むんじゃないかな

まー別に男女に限らずか、これ

誰と関わる時も同じか


でも、このコミュニケーションで誰かが誰かに合わせる、みたいなことは基本的には必要ではなくて、必要なのは認めるということ

みんな違ってみんないいわけ

マジでみすゞいいこと言うよね

お互いの価値観、考えを言葉にして伝えて、分かって「そういう考え方もあんのね」って思えれば十分だと思う

人が寄り集まって、なにか一つのことをしなければいけない時にはやっぱりそういうわけにはいかないけど、認めたうえで妥協点を探るという難しい作業をするって話であって、絶対に誰かの一つの考えに従わなければいけないわけでもないし、妥協にあたって淘汰された考えが間違っているわけではないし、否定していいわけでもない

その時々の最適解をだすってだけだし


そんで、そのために必要だなと思ったのが

①自分の価値観を理解しようと試み続け、それを伝えるための言葉を持つこと

②相手の理解をあきらめず、言葉、立場、文脈、表情等々からその人の価値観を読み取ろうと努力すること

の二点です

①マジ大事で、自分の考え、価値観をまず自分で知ろうとしなければいけない

最近話題の「差別したことありません!」的な発言は、おそらく自分の価値観を知る努力をしていないがためにできる発言ではないか

自分は人の様々を判断するときに、本当にフィルターをかけて見ていないのか、見ているとしてそれはなぜなのか、何を善しとし、何を善しとしていないからそういう考えに至っているのか

その言語化においては、人にできるだけ的確に伝えるための言葉選びが肝

そして②。①がいかに上手にできても読み取る側が②が下手くそならコミュニケーションとれない!

所謂「さすがにその解釈はなくね!?」みたいなクソリプとかしちゃう人たぶんマジでこれができないんだろうなと思う

どんだけ①がんばっても②ができんで、理解が下手くそなら何も伝わらない

「言葉のキャッチボール」って最初に言った人もみすゞ並みにすげーって思っちゃうね

大谷翔平のボール私とれないもんね(そういう話ではない?)


だから日頃から相手のことを理解しようとする、そして受け入れる練習、そして、自分自身の内面を言語化する練習が欠かせないんだと思う

ちなこのnoteは①の練習よ

これを読んでる人に私の考えてること伝わったらいいな


あと、ちょっと前に話題になってた「文学を学ぶ意味」とかもたぶんここにあるんじゃないかな

それはきっと②の練習

文学の研究を通して、書き手ががんばって言語化したことを理解しようと努力続けるという学問?なのではないかと

特に昔の文学を読むというのはある意味で、タイムスリップしてその作者との対話を試みようとする営み

そこから自分自身との価値観の相違点、あるいは立場や環境的な違いを読み取っていく

それはもちろん現代の対話にも生きるだろうし、時代は違えど同じような歴史的な変革点?みたいなものにぶち当たったときに、解決の最適解を求めるヒントにもなると思ってる


色々ごたごた言ったけど、結論としては

私は自分自身に対する理解も、ほかの人に対する理解も決してあきらめたくないなということです



忘れないうちに大体のことは記録できたから今回はこれでとりあえずおわり!

念願のバスローブも届いたことだし優雅なバスタイムしてくるぜ

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