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実は親は未熟だと気づいた日の話


自分の身をどこかに放り投げたくなる瞬間がある。

耐えられなくなる、の3歩手前でどこかに行ってしまいたくなるのだ。

旅行でもいいし、一人旅でもいいし、とにかく自然に触れたくなる。酸素を胸いっぱいに吸いたくなる。これは私が、日常生活を送るにあたって傷つきそうな心を守る所謂「防衛機制」の心理が働き、遁走しているんだと思う。


まさにそれがこの8月の「かめきちのなつやすみ」にて、北陸で緑いっぱい、酸素を胸いっぱいに吸っているわけでございます。(被害者:おっと)

永遠の愛を誓っているおっとを1ヶ月の間放置してまでどうして私は一人になりたかったのだろうか?母親から「あんたはどうしようもないね」と言われてまでどうして私は遁走してしまうのだろう?どうして防衛機制がこんなにもはたらいてしまうんだろう?自然に身を任せて考えてみた。


可愛らしく無責任な言葉を使うと、私は傷つきやすいのだ。可愛くなく言うと、本音を誰にも言えないから、自分のどうしようもない気持ちを自己処理したいのだ。


思い返してみると、私は傷つきやすく、壊れやすいこどもだった。

今思うと若干のHSCだったんだと想う。


それの根本はおそらく家族関係にある。シンプルに片親だった私は、シンプルに父親からの愛情をうけていない。

そしてなんとも可哀想なことに、近所のおじさんだと思っていたおじさんが実はただの近所のおじさんではなく、自分の父親であったという前代未聞のカミングアウトを思春期にうけてしまった。

祖父母の家に行ったときになぜかよく遊びにきていた近所のおじさん。

今思うとそのおじさんの来訪はよっぽど不可解な出来事だったんだろうけど、世の中「こうだよ」と言われたら意外と「そうなのね」と受け入れられるのが人間なのだ。(私だけか?笑)

おじさんは不思議なタイミングでふらっと来ていた。

にょっきりと背が高くて、祖母の家に入ってくる時は頭が当たらないようにドアをくぐるようにして入ってきていた。その姿が実家の梁に頭をぶつけないようにする兄ふたりの姿とそっくりだったので印象に残っていた。

その、カレーうどんが好物でバイクに乗っていて、笑った顔がどこか懐かしくて、人を惹き付ける、一分一秒でも長くそばにいたいような、帰っちゃうタイミングが切ない、次はいつくるんだろう?と思わせる、なんだか不思議な近所のおじさんが大好きだった。おじさんを想うといつも胸がしくしくと傷んだ。おそらく初恋だったんだと想う。

その不思議なおじさんが実は私の父親であった。

私だけが知らなかった事実だった。そのことを幼少期の私に知らせるにはあまりにも酷なのではという、家族全員がよかれと思って私についた嘘であることを知った。

当時はそれなりにショックを受けたが、意外と私はあっけらかんとしていた。なんとなく「みんなが私のために配慮してくれたんだ」というこどもながら大人の空気を読もうとした私は、その後父を父であることを受け入れようと最大限努力した。今思うとこれも私の「乖離」と「統制(コントロール)」と「抑圧」の防衛機制だったんだと想う。


誰にも頼まれていないのに必死に父親に手紙を書いたり、電話をしたりした。(すべて返事はなかった)

みんなが一生懸命隠してくれていた父という存在を私はわたしなりに受け入れようと数年は努力をしてみた。してみたがいつもうまくいかず、私の父親への気持ちはさざなみのように打っては寄せ、打っては寄せと答えが出ずに数年過ごした。もう気持ちがごちゃごちゃだった時期のことは、まるっと記憶が途切れてしまっていることもしばしばある。

私はわたしらしく生きていこうと、グレながらも真っ当に生きようと努力をしていたときに、ふいにその日はやってきてしまった。父から自分のことを、社会的に「向坂愛理」という人間を隠される、抹消されるというなんとも寂しい仕打ちをうけてしまった。

このことからかなりの年月が経つが、今でもその記憶のカケラをすこしでも思い出そうとするとボタボタと涙が落ちてくるくらい、寂しい出来事だった。

この父親や、家族から受けた行為が、私の抜本的な「傷つきやすさ」につながってしまった。

傷つくことによる辛さを知っているから、なるたけ傷つきたくない。

だから自分を守る=防衛機制が働くというメカニズムが生じてしまっている。家族に受けた仕打ちが忘れられずに記憶に残っていて、もうあんな思いはしたくない、でももしそうなってしまったらどうしよう、という防衛機制と予期不安の中で生きている。


防衛機制とは、いわば自分を守る行為なので、ある程度守れたら自分の身はいちどは安泰になれる。安泰になれたらゆっくり物事を考えられる。今私は防衛機制がバチバチに働いている(遁走しちゃったし)ので、ある意味では安定しているのだ。

ゆっくり物事を考えて、自分の人生を俯瞰して考えたときに、やはり自分の抜本的な部分に触れようと努力ができるようになる。

自分と向き合うことはときにつらいが、楽になることもたくさんある。一人で暮らしてみて、一人で自分を見つめ直した時、ふと生じる疑問があった。


「もしかして、私が思っているよりも私の親は未熟だったのではないか」


なぜ親は私に嘘をついたのか?

なぜ離婚しなければいけなかったのか?

なぜあの場で私はわたしの存在を隠されなければいけなかったのか?

なぜ生まれてきたことを否定されなければいけなかったのか?


予後予測がついたら、こどもを傷つけずに済んだだあろう。ちゃんと、よく考えたら私達は父親という絶対的な存在から捨てられることはなかったと思う。父親だけでない、母親も、あなたたちが私に「その場しのぎ」の嘘をついたから、きちんと説明をしてくれなかったから、私は何年も苦しんでいるんだ。

なんでだろう、どうしてだろう、、、、

考えに考え、ぐるぐる悩んだときに、でた結論が、

「そっか、親も親になるの、初めてだったもんね。」


というところだった。そしてなにより、きっと他人の親と比べて私の親は未熟だったのだ。こどもを3人継続して育てるにはまだまだ未熟な人間だったんだ。そこの真理に行き着くことができた。だから大丈夫、私はいらない子ではなかったんだ(と言い聞かせるww)


父親に抱かれた記憶はないが、一度だけ父が私のおでこにキスをしてくれたことがあった。どれくらい小さいときの記憶かはわからないが、すごく照れくさくて顔が真っ赤になったその出来事を、鮮明に覚えている。

そのとき、一瞬でも彼の目に私が娘としてうつったのであれば、悔しいけどこんなに幸福なことはない。彼にとって私は彼の人生を躓かせた一つの石ころだったのかもしれないが、私にとってはひとりしかいない、たった一人の父親なのだ。


きっと私は父親を許すことができない。許すことができない自分を何年も悔やんだ。母も兄も「しょうがなかったよね」と笑いながら言う。家族で私だけ、たった一人で馬鹿みたいに父親をこんなに引きずっている。こんな私の精神がよっぽどおかしいのかと悩んだ。何年経っても私だけ父親の影にしがみついているのだ。けど、悔しいけどそれだけ彼を愛していたのだ。愛したかったし、愛されたかった。だから一生許すことなんてできない。


許せないけども、私はその怒りをもっと困っている人間を救う、そのパワーにするよ。

きっと大きな力になると想うから、私はわたしのやり方で生きていくよ。

いつか私が、もっと偉大な人間になれたら、あの頃のように私から手紙を書かなくても、いやでもあなたの目に映るようになるから

だから私は旧姓で活動をする。

世界で一番憎くて、大嫌いで、愛されたかったあなたの名字で活動している。





「みんなから愛されて、知的な女の子になりますように。Airiという発音が海外でも通じるように。愛の理が知れる子になるように。」





               2021年8月31日 かめきちの夏休み最終日








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