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感受性が高すぎた女の末路



私は弱い。



傷つきやすいし、引きずるし、人目が気になるし、ちょっとやそっとのことで泣いてしまう。

感受性が高すぎて、すぐに人に共感して、自分のことのように涙を流したり怒ったり、相手の気持ちをわざわざ代弁したりとはた迷惑な女なのだ。

5歳のときに「人はいつか死んでしまう」ということを知り、最愛の母が死んでしまったらどうしようと裏山にこもってひとしきり泣いたこともある。(母は現在もピンピンしている)

自分はこの世に必要のない人間ではないか、生まれてきてはいけなかったのではないかと悩んだ時期の忘れられない十数針の傷が今もなお体に刻まれている。

良くも悪くも先のこと、先のことを考えて生きているので、いつも未来に不安を抱えている、超絶ビビリでもある。

大きな音にもびっくりするし、男性の怒号とか、誰かが怪我をしたり苦しい思いをしたりしていると心臓がドキドキして冷や汗をかいてしまう。

マネージャーのOTなんかは、こういったことにいつも冷静で、なにがあっても驚いたりせずにどんと構えている。ちょっとやそっとのことで驚かない、そんな彼とは大違いだ。


そんな弱くて感受性が高くてビビリな私が清水の舞台から飛び降りる気持ちで独立、開業し、現在は全国津々浦々をまわっている。

私を頼ってくれる人は、本当にありがたいことに全国にたくさんいる。
それが原動力になるのだが、ふと不安の波が押し寄せてきたとき、いつもこう思う。


「私には保障と保証がない。そして孤独である」と。


まだ仕組みが作れていないのが一番の不安材料なのだが、

黙っていてもお金は入ってこない。
私が倒れたら何も起きなくなる。
成功を収めなければ意味がない。
誰も助けてくれない。
ミスをカバーしてくれる人はいない。

私は自分の責任を自分で取れることを引き換えに、保障と保証を失ったのだ。

私のプラットフォームはオンラインであるので、今回のようにアウェーに行き、はじめましてのこどもを一瞬で評価し、そして結果を出すというのは相当なプレッシャーがある。

「その場」を逃したら終わり。外来受診ではないので、"そっか〜今月は泣いてできなかったけど、また来月ね☺"という言葉が存在しないのだ。

結果を出せないこと以上に私の恐怖はない。

いつも怖くて孤独を感じるけれど、私はそんなことを言ってられない。
そう、言ってられないのだ。

だって何よりも怖くて、何よりも孤独や不安を抱えているのは他でもない。保護者である。こどもの発達を心配に思う、保護者なのだ。

保護者の気持ちを考えると、私の恐怖なんて屁でもない。
だから私は「ママたちはこの何倍も何倍も辛いんだ。怖いんだ」と自分を奮い立たせる。


私にはやるべきことがある。
私には教えるべき人がいる。
私には救うべき人がいる。



なので私は今日も明日も、泣いている子を抱き上げ、道に迷う保護者にほらあっちよと指を指し、振られる旗をびゅうびゅうと感じながら走っていく。






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