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「月」。


※こちらの記事には2023年10月13日公開の映画「月」の内容のネタバレ・2016年7月26日に発生した「相模原障害者施設殺傷事件」の内容・その他過激な表現を含みます。

※作品に沿い、スペシャルニーズのある方の表現を「障害者」と書きます。




Prologue


私は映画が好きだ。

月何十本!年間何百本!という映画マスターでは到底ないが、
自分がふっとリラックスしたいときや
「よし、今日はあの映画を観よう」と映画を観るために一日を頑張れたりする。



決して誰からも強制はされてないのだが、観なくてはいけない映画に出会った。そして観に行った。


人生で初めて映画館から飛び出したくなった。






相模原障害者施設殺傷事件

2016年に起きた、日本を震撼させた猟奇事件をご存知だろうか。

相模原障害施設殺傷事件や津久井やまゆり園事件とも称される、当時26歳だった施設の職員がより良い世界をと施設に入居する知的障害者や重症心身障害者19名をナイフで切りつけ、殺傷した事件だ。

知識のない若者が傲慢的に起こした決して許されないジェノサイド。
何も許容できない、一切の情弱酌量の余地もない猟奇事件である。


相模原障害者施設殺傷事件(さがみはら しょうがいしゃしせつ さっしょうじけん)は、2016年平成28年)7月26日未明に神奈川県相模原市緑区で発生した大量殺人事件
神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員であった植松 聖(うえまつ さとし、事件当時26歳)が、同施設に刃物を所持して侵入し入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。殺人などの罪で逮捕起訴された加害者・植松は、2020年令和2年)3月に横浜地方裁判所における裁判員裁判死刑判決を言い渡され、自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した。
殺害人数19人は、当事件が発生した時点で第二次世界大戦太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としては最も多く、事件発生当時は戦後最悪の大量殺人事件として日本社会に衝撃を与えた。相模原殺傷事件相模原障害者殺人事件相模原障がい者施設殺傷事件津久井やまゆり園事件などとも呼ばれる。

ウィキペディアより

※ウィキペディア閲覧注意


当時のニュース速報を今でも覚えている。
もう理学療法士として世に出て、世界一周を終えた私は千葉県の訪問看護ステーションにて勤務をしていた。
いわゆる延命治療を受けている高齢者も、NICUを退院したこどもも、呼吸器を付けている成人も診ていた時期であった。

「国の負担を減らすため、意思疎通を取れない人間は安楽死させるべき」

という植松死刑囚(当時被告)の証言を見たとき、率直にこの人の思想を知りたいと思った。
それがいいとか悪いとかではなく(結果10000000%悪いのだが)、純粋に知りたいと思ったのだ。

そのことを職場で話したら職場の先輩が青ざめた顔で「向坂さん、お願いだからそんなことを言わないで」
と言った。顔を青ざめられようが赤らめられようが、知りたいものは知りたいのだ。


7年越しの作品、「月」


「やっぱ辞めようか」と何度もいいかける


前情報があったこともあり、見る前から緊張していた。
食べ物が喉を通らず、ずっとソワソワしていた。
始まる10分前にスクリーンに入場できるのだが、30分前から待機し動悸と戦っていた。
一緒に観に行った人に「やっぱ辞めようか」と出かけた言葉を何度も飲み込んだ。

それくらい、観ることに対して決意のいる映画だった。

4〜5本の予告動画が終わり、お決まりのあの泥棒が出てからいよいよ私の動悸はピークに達した。

映画が始まる前に、自分という人間の存在意義を考えまくるのはあとにも先にもない経験だろう。



結論から言うと、映画として最高であり、マスターピースなシネマだと思う。

キャスティング、カメラワーク、構成、事件の再現性、緊張と緩和、とてもいい映画だった。


ただ、観てよかったか?と聞かれると正直【わからない】。それほど辛すぎた映画。
一つ言えることは「自分にとって観なくてはいけない映画だった」という事実だけが残る。



キャスティングがすごかった


宮沢りえ (堂島洋子)

宮沢りえ、すげーわ。の言葉しか出ん。
「余計な一言を言わない女性」だった。洋子には洋子にしかわからないものがある。だからこそ余計な一言を言わない、言えない人なんだなぁと。

宮沢りえは舞台挨拶で「情緒をかき乱して演じた」と言っていた。
まさにそんなシーンが複数あり、細々と、怖怖と過ごす彼女の世界が堰を切ったように溢れ出すシーンが印象的であった。

オダギリジョー (堂島昌平)


スーパーで髪を切った師匠と話しながら買い物するシーンがアドリブっぽいなぁと思ったら、そうだ、この二人は「湯を沸かすほどの熱い愛」ではないか。


ちょっと駄目っぽい優しい男と芯のある女が支えあう演技が共通してて、この二人はいいよなぁ。
「月」は最初っから最後まで鬱々としている映画だが、唯一ピカッとスポットで明るくなる瞬間はオダジョーのシーンだけだった。映画の中のオダジョーに何度も助けられた。

磯村勇斗(さとくん)

この人間だけにはコメントをできない。
「きっと元々純粋な人だったんだね」とか
酒鬼薔薇事件の酒鬼薔薇聖斗のように「快楽の糸がこんがらがった精神疾患」でも片付けられない。自己愛性パーソナリティ障害、たしかによくわかる。映画の中では天の声を聞いたり、誇大妄想があったりなど統合失調症のように描かれていたが、あれはマリファナの症状なのかな。


二階堂ふみ(坪内陽子)

ここここ、こわっ。
最初のワインがぶ飲みするときのカメラワーク怖すぎやん。このひと二階堂ふみだったんだ、、怖すぎて気が付かなかった、、
人っていうのはいくらごめんなさいしても言ってはいけないものがあって、、良識っていうものがあってだな、、と思いながら観たけど、きっとこの子はPTSDになってしまうんだなぁと思った。(植松死刑囚が殺傷をしているとき、「こいつ、話せる?」と聞かれて話せない人を殺して行く姿をみて発話が無い方も「話せる!!話せる!!」と泣き叫んでいたが「話せないじゃん」と眼の前で殺傷をしたという。)



映画を観た人の心の守り方


正直メッセージ性は低い映画だと思った。
いや、メッセージ性が低いのではなく、衝撃的すぎてメッセージが何もはいってこないのだ。

障害者の世話が大変、だからできる人がやってほしい、障害者が不幸になっている姿をみたくない、だから森の奥底に隠す、働いて理不尽さがある、だから虐待をする。
これは私たち社会が作り上げてしまった社会問題だよね??
高齢出産、出生前診断、中絶、さぁどうする???君は明日から何をする???どう生きる???というメッセージなのかもしれないが、

本当スマン、辛すぎてそのメッセージ入ってこん。

という率直な感想。

実際問題、オダジョーはこの映画を観終わって「一緒に観に行った人と何も話せなくなるようなそんな重たい映画だ」と言っているらしいし。

ああいった猟奇的な映画を観た後、感想として「自分の中にもこの人がいるのかもしれない」という一種の共感やおぞましさを覚える。

「自分の中に秘めたる優生思想」がゴボゴボと心の深海から出てくる。

現に堂島洋子がさとちゃんと対峙する場面で、洋子の小説家としての自分と高齢出産をする自分の、自らの心の弱さを自らの幻影で映し出す場面がある。
まさに「自分の中に存在する悪」を映し出し、自分自身に刃を向けているのだ。(個人的に一番好きなシーンであった)


優生思想と、欠けた教養。

経営者である私は時折、極端且つ排他的な発言をすることがある。
「〇〇でないと意味がない」というような発言だ。

私もこの植松被告の「障害者に対して排他的な発言」に対し自分を一瞬トレースしてしまい、猛烈な吐き気に襲われた。

しかしよく考えると全く違うのだ。(当たり前だけど)
どうか、これを観た人が自分の中の悪に囚われないでほしい。
彼とあなたは全く違う。

彼は、「ヒト」と「それ以外(障害者)」を分け、さらにその区分を
「心があるかないか」でわけ、その心があるかないかは「言葉を発することができるか=コミュニケーションが取れるかどうか」
だと主張していた。

なんともゲロミソ馬鹿げた表現である。


オダギリジョーのかわりに私が強烈な右フックをお見舞いしたい。(キックボクシング習ってるし)
※いかなるとき(緊急や防衛の場合を除く)も暴力という手段は選択してはいけません

彼は知識や教養がなく、自分の中に唯一生まれた正義を「世間の正義」として
俺も思ってるからみんなそうでしょう?違う?というような本当に自己という狭い狭い空間の正義を振りかざし、凶行に至っている。(彼は自己愛性パーソナリティ障害と診断を受けているが事件に直結するような精神疾患はなく、使用していた大麻も凶行に及ぶ関連性は低いとの調査であった。そして教育学部で教員を目指していたという。)


現にオダギリジョーの「俺のこどもは言葉を話すことができなかった、だから生きる意味がないというのか」という問いに対して答えずにはぐらかし別の自論を述べたのだ。


もう一度言う。彼の狂った人間性もあるが、何よりも彼は知識と教養と良識がないのだ。



言葉が出ない人が、出せない理由を知らない。
暴れる人が、暴れる理由を知らない。
目で語りかける人の語りを知らない。
人の感情というものを知らない。

いや、きっと考えようともしていない。

私はよく「知らないは人を傷つける」という言葉を使う。
この映画を観て思ったことは、知らない、いや知ろうとしないということは悪なのだ。


これから私がすべきこと


私はこの映画を観て辛かった。最初から最後まで辛かった。
エンディングで救済措置があるかと思ったが、なかった。
ラストシーンは殺傷事件のニュースが流れ、宮沢りえがオダギリジョーに「私もあなたのことが好き」と伝え施設に向かうところで終わる。

彼女のこれから生まれてくるであろうこどものことや、その後の施設の一切の描写がない。
なんでまぁこんなに暗く作ってしまったんだろう。ここまで暗く作る意味は果たしてあったのか、というところまで考えた。

夫妻が亡きこどもに想いを馳せるシーンや、オダギリジョーの行き場のないやるせなさや、きぃちゃんのお母さんの嬉しそうな顔を観ておんおんと泣いていた私だったが、後半にかけてどこか冷静になり涙が引き、ロジカルになっていた。

きっとこれ以上のめりこむと自分の心が壊れてしまうので、私は「この映画を観ている自分がつらい」のではなく
これからやろうとしていることや今やっていることに間違いはきっとないのだ」と防衛機制を働かせた。


それは
・こどもの環境を生まれてからすぐ整えること
・支援者教育や情報発信
・スペシャルニーズのある人がお金が稼げる仕組み

この3点だ。


この園の施設内での入居者への虐待の理由として「入居者が暴れるから」という理由であった。
きっと彼らがパニックを起こしたり、暴れるという見方をされるのは不快な環境があって、かつ自分の気持ちが伝わらないから。声にならない叫びを叫んでいるのだ。
これが、小さい頃からリラックスできる環境があればどうだろう。
自分の身体や感情を楽にできる術をもっていたら少しでもこの行き場のないパニックは治まるのではないか、と考える。

そして支援者教育と情報発信。これは前述した「知らないは悪」というところに繋がってく。
言葉がでない=コミュニケーションが取れない、ではない。
生きている人間はみな、なにかしらで発信している。それを「都合よく」ではなく、本当に彼らの伝えたいことを汲み取る、そんな力を身に着けていくことが重要である。
そのためには基礎・応用知識や周囲の理解が必要になってくるので、私は常に支援者教育と情報発信を行っている。

そして植松死刑囚の障害者に対しての「生産性がない」という馬鹿げた言葉だが、実際問題綺麗事ではなく
当事者が生活に対してものすごく生きがいを感じていてるかというとそうではない家庭もある。
私は「介護を受ける」人たちがお金を稼げる仕組みを作りたい。そして「介護をする」側の家族の日常が介護だけで終わらない日常を作りたい。
これだけ書くと、綺麗事や夢見物語なんて言われそうだが、私は有言実行の女だ。そんな社会の縮図を作ってやる。今に見てろと唇を噛んだ。



Epilogue


余談だが、映画を見終わったあと一緒に観に行った人に

自分がこの”月”という映画に対して1ミリも触れない人生だったら観ていたかどうか」という投げかけをした。

私のアンサーは「絶対に観ていない。けど0.1ミリすらも触れていたら確実に観ていた」と伝えた。


きっと私の他にも「自分は観なくてはいけない」という感情を持つ人もいるだろう。ぶっちゃけ無理して観なくてもいいと思う。だってそれくらい辛かったもん。眠れなくなったもん。

だから、忘れない。忘れられない。こうやって書く。形にする。
そうすることで記憶から風化させない。

そして、ごめんなさい、こうすることでしか私は自分の心を守れなかった。
観終わってすぐに書いた乱文、駄文である。これが私の自分の心の守り方です。お気持ちを悪くされた方がいましたらごめんなさい。





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