私が「愛理」であること。
3歳のときに「お前なんていらない」と、捨てられた父には30歳を手前にした今でも誑(たぶら)かされていると思っている。
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のわたしの本名は「愛理」という。
離婚間近の保護者の気まぐれでできた偶然の産物である私は、
はじめての女の子だったからか顔の造形はさておき大層愛された。
気まぐれで出来た子を気まぐれに愛してくれた父は私に
「愛の」「理由が」わかる子になるようにと、
みんなから「愛されて」「知的な」子になるようにと、
「Airi」という発音が海外で通用するようにと、
私を「愛理」と名付けた。
おかげさまで現在の私は、愛の意味を深く深く考える十数年間を生きることができたので、絶賛「対・愛情躁鬱病」となってしまった。
私が愛理という名前にがんじがらめに縛られている以上、
私は自分の人生から"愛"を切り離せないのだ。
このどうにもこうにもこの切り離せない
「愛」という感情がすべての私の活力の根源となっている。
どういうことかと言うと
物を愛する、長く使える。愛着が湧く。
自然を愛する。ストレスが生じた時に自然を迎えに行く。
事象を愛する。起きる大半のことに前向きになれるので、今という時間を愛しく思える。
人を愛する。ぬくもりや情熱や幸福がそこにはある。
私の朝起きてから寝るまでの24時間が続いていく
365日においてすべてに「愛」と共存している。
だが一方で「愛」はすべてが愛しくて可愛くて愛らしくて
愛でられるものでもなく、それはときにマイナスな感情にもなる。
私の愛の根幹となるものが冒頭の「彼」なのだが、
そんな彼と向き合ったとき私は「彼」に愛されたくて愛されたくて仕方がなかったんだ、というダダ漏れの恥ずかしさを目の当たりにする。
ここからはとても抽象的な言葉になるが、
私の人生には紛れもなく「シンプルに人を救う」という大目標と目的がある。
「シンプルに人を救う」という大目標と目的を細分化したときに
様々な項目があり、そこを一つ一つクリアしながら日々を生きているのだが、ここ最近、この大目標を叶えるまでの道のりの中目標が言語化出来た。
それは
自分の中の「愛」という感情を一箇所に向けないで、別け隔てなく色んな人やいろんなモノを愛することができる生活をいつかどこかで自由にしたい。
ということ。
私の人生の大目標「シンプルに人を救う」ということと
私の良性の十字架「愛理」でいること をかけ合わせ、
私が生涯「自分を好きでいる、そしてそんな自分が好きである」という
これらのことを叶えられるために必要なピースなのだと思う。
私に逢いたい人が、愛にきてくれる。
あなたの人生の「愛間」に一緒に過ごす。
愛も変わらない、愛がそこにある。
そんな空間を作りたいな。とふと思った。
今日も愛している。愛しているよ。