Hello my friend
あれは高2か高3になる春休みだっただろうか。
市の派遣事業の一員として、アメリカのDallasに行った時のことだった。
高1の夏休みに西海岸に行っていたこともあり、それほど、抵抗なくアメリカinしたのだが、やっぱり西海岸と中南部の地域性の違いも肌で感じていた。
街歩きが好きな16、17歳の少年は、怖いものも知らずもいいことに自由時間に一人、街にでた。道を少し入ったところに、ここは何屋さんさんだろう?外見からはよくわからない、雑貨屋のようなお店をみつけ、恐る恐る扉を開いた。
薄暗い狭い店内に他の客はおらず、番台のような少し高い場所にいた黒人のおっちゃんは、ちょいと僕をみると
『Hello my friend』と声をかけてきたのだ。
今でこそ、「こんにちは、いらっしゃい」ぐらいのニュアンスだったんだろうと理解できるが、英語のできない実直な日本人だった僕は、いまでもその時の場面を鮮明に覚えているほどガツンと衝撃をうけた。
名も知らない、初対面の、自分の息子ほどの歳も離れたクソガキに「my friend」と呼び掛けてくれたのだ。思わず、周りを見渡し、自分に投げかけられた言葉であることを確認し、嬉しさと、困惑と、アメリカって国を一気に感じた場面であった。
その後、メキシコでストリートチルドレンたちと過ごす日々でも痛感したことであったが、同じワードでも、話す人々、関係性、背景、変な言い方だけど「階層」などによって、持つ意味は代わってくる。だからこそ、映画や本の翻訳は本当に難しいのだろうと安易に想像できる。もちろん、同言語でさえ、地域や時代が違うのであれば、その地域や時代にしっかり精通していなければ言葉に含まれる真のニュアンスは理解できないのかもしれない。
言葉は、やっぱり生きものだ。素敵な言葉のやりとりができるようになりたいものだ。