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第37号 2022.02.18

■ 摂取エンタメ記録

Reading:『文藝 2022年春季号』

- はらだ有彩「山姥がハハハと笑うとき」

はらだ有彩さんの著作「山姥がハハハと笑うとき」は、物語における母親の役割の「固定」についての論考だ。多くの物語によって形作られた「いくつかの母親像が溶けあった巨大な塊」を、四象限に切り分けている。

x軸は母の「強弱」、y軸は母の「善悪」。第一象限から第四象限までの概要は下記の通り。

第一象限:母は強し=子のために自分を犠牲にする(強いとされる、善人とされる)
第二象限:母の悲哀=子を失い錯乱する(弱いとされる、善人とされる)
第三象限:母は愚か=自分の子だけ可愛がり他人(の子)を犠牲にする(弱いとされる、悪人とされる)
第四象限:母は加害者=子を支配し間違った方向へ導く、あるいは殺す(強いとされる、悪人とされる)
 これらの母親像たちは相互に作用しあい、境界線の曖昧なひとつの巨大な塊になり、無数の人々の口と耳を通過して、より真実らしくなっていく。巨大な像に、生きている生身の母親の方が「固定」され、かくして愛情深く、弱く、それゆえに愚かしく、ときに危険な母親は「実在する」ことになる。

この論考を読み、私が思い出したのは『ゲーム・オブ・スローンズ』に出てくる母親たちのことだ。

『ゲーム・オブ・スローンズ』は2011年〜2019年にかけて放送されたアメリカHBOのテレビドラマである。様々なタイプの女性が活躍する物語であり、私も力をもらった。

ただ母親という視点から見ると、その女性たちもほとんどが固定された母親像の枠に留まっていたように思われる。

例えば分かりやすいところでいえば、息子であるロビンに執着するあまり他者を犠牲にすることを厭わないライサ・アリンはまさに第三象限(母は愚か)の典型だ。概ね善人として描かれたキャトリン・スタークはその運命により第二象限に落ち着いた(場合によっては第一象限に行き着くこともあっただろう)。

ドラゴンの母であるデナーリス・ターガリエンや王妃であるサーセイ・ラニスターはどこの象限に当てはめるべきかというと難しいところはあるものの、いずれもこの四象限の範囲内、つまり固定された母親像の中に含まれる。

四象限に当てはまらない母親というと、エラリア・サンドぐらいだろうか。しかしエラリアも自身への復讐として娘を利用される憂き目に遭った。

大抵の場合そこに父親は存在しないというのも、「山姥がハハハと笑うとき」での指摘の通りだ。結局、子を支配するのも、子をかわいがり他を犠牲にするのも、子を失って泣くのも母親だった。


ああ、「母親」になりたくない。子供は育ててみたいけれど。私も山姥になりたい。

■ Watching:『殺人を無罪にする方法』シーズン1 11-12話

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