西洋近代と日本語人 第3期 その3
1.はじめに
86. 観念説の議論を再開します。観念説 the theory of ideas については、2の26の1062で取り上げて以来、「5.2 観念説(続き)」という長い長い節というか章というか、とにかく観念説という項目の下でずっと議論をしてきました(ただし、2の28~2の30の「4.5 愛の思想と日本語人」は別です)。第2期の終盤に扱ったデカルト(1596-1650)の神の第一の存在証明をめぐる議論は、すべて観念(idea)の特性にかかわる議論といえます。
87. 今回は、全体として、観念説をめぐる今後の議論のための導入です。まず、観念説という哲学的な枠組みが私たちにとって興味深いのはなぜなのか、を明らかにします。これまでの議論を通じて、懐疑論と個人主義が近代文明にとって重要な役割を果たしたことが分かってきています(3の2:46-48)。観念説は、懐疑論と個人主義を橋渡しする機能を備えていたようです。個人の信念と、その信念に対する懐疑を、同時に成立させる哲学的装置として作用したように見えるのです。このことをまず確認します。次いで、第2期に観念について述べたことを確認し、まとめておきます。
2.観念説はなぜ興味深いのか
88. 17世紀の半ば以降、デカルトにならって意識の内容すべてを「観念」と呼ぶ言葉遣いが、新しい学問を志向する人々のあいだで広まります。西洋近代の哲学者たちは、こうして人間はみな自分の思考や感情にもとづいて、つまり心の中の観念にもとづいて日々を生きている、という考え方を共有するようになりました。さらにまた、まさにそうであるから、個人の心の中の観念から出発して真と善と美を追求するしかないと考えた。
89. ただし、新しい学問に賛同しない人々のなかには、「観念」という言葉遣いに疑念を抱く人もいました。ジョン・ロック(1632-1704)を批判したエドワード・スティリングフリート(1635-1699)は、その一例です。いずれ紹介しますが、その疑念は観念説の弱点――個人の意識内容から出発した場合、客観的な真理に到達するとは限らない(92以下参照)――を正確にとらえたものでした。(2の29:1597)
90. 考えてみれば、いつでもどこでも、西洋の古代や中世でも、西洋以外の地域でも、人は皆それぞれの心の中の思考や感情にもとづいて生きてきたはずです。またもちろん、人は自分たちがそうやって生きていることをお互い理解していた。西洋近代の哲学者たちが他の時代や地域の人々と違っていたのは、ここから一歩踏み込んで、個人の心の中の思考や感情から〝出発して〟真と善と美を追求するしかない、と考えた点にあります。デカルトが神の存在証明で行なったように(2の32、2の33)、個人の心の中の観念について考察することを通じて真善美を見いだすというやり方が、西洋近代哲学の常道となりました(2の32:1284-1287)。
91. 復習しておくと、プラトンは感覚世界の外に在るイデアこそがこの世界を成り立たせる真の実在であると考えた。そして、人は哲学的問答(ディアレクティケー)を通じて、またエロースのはたらきを通じて、イデアにいたることができると考えた。アリストテレスは、事物の内に宿るピュシスこそがこの世界の生成変化の真の原因であると考え、人は形式的推論(三段論法)と観察を通じて事物の真の在り方をとらえることができると考えた。いずれの場合も、個人はイデアやピュシスを見いだす過程に登場しますが、それぞれの個人の見いだすものが違うとは想定されていません。その意味で、イデアやピュシスが議論の出発点になっている。個人はイデアやピュシスの受け皿のようなものです。
92. これに対し、西洋近代の哲学者たちは、個人の心の中の観念から出発する。この場合、各人の見いだす真善美が人によって異なる場合がありうることを無視できなくなります。もちろん近代の人々にとっても、神 God は唯一なのだから、究極的には、真理は一つ、善は一つ、美は一つです。しかし、この地上で現実に見いだされる限りでは、事実として、心の中の真理の観念、善の観念、美の観念は、人々のあいだで大いに異なっていることがある。そもそも唯一であるはずの神の観念すら、現実にはまるで異なっている。西洋近代の人々は、大航海時代以降、世界各地で神の観念が大いに異なることを実地に学んで知っていました。
93. すでに見たとおり、デカルトは、神の存在証明を含むさまざまな論証を緻密に作りあげました。しかしながら、『省察』を刊行するときには数名の学者にあえて反論を求め、学者たちの反論と自分の答弁を併せて刊行しています(2の35:1451)。彼は、自分の心の中の観念を省みて得られた論証に予期せぬ誤りが含まれている可能性を無視しなかった。自分の立論に全幅の信頼を置いていたはずですが、同時に、だからといって異論の余地がないとまでは思っていなかった(同上:1453)。自分が真理に到達していると決め込むわけにはいかない。それゆえ、自説に対する疑義の表明を周囲の人々に求めたわけです。
94. この経過は、懐疑を自分の中に抱え込まずに、社会的に遂行する工夫であるように見えます。自説が真理である点には確信がある。けれども自分は有限な存在にすぎず、全知でも全能でもない。となると、真理に到達したと思うまさにそのとき、誤りを犯している可能性がある。この状態を自問自答で解消しようとしてもうまくいかないはずです。懐疑と確信を無限に往復するだけになる。でも周囲に問題を投げて、他人にどう思うか尋ねれば、自問自答のなかで七転八倒しなくてすみます。
95. 個人の心の中の観念から出発するという西洋近代哲学の方法は、デカルトの『省察』の刊行の事情が示すように、個人ではなく社会が懐疑を遂行する仕組みをともなって成立しました。観念説は、唯一の神、唯一の真善美への不変の信念と、神の観念や真善美の観念は人々のあいだで大きく異なっているという現実との折り合いをつける哲学的装置として登場したわけです。
96. なお、懐疑を社会的に遂行する仕組みとは、例えば、学問の世界なら、学者たちが自由かつ率直に意見を戦わせる仕組み、つまり学会です。政治の世界なら、議会でしょう。一般化していえば、対等なもの同士が事実にもとづいて論理的に討論する場、およびそういう場で用いるのに適した言語(散文)ということになります。
97. 事実と論理は、討論する者たちに等しく適用される規準です。その意味で、事実と論理は公正な第三者の位置を占める。まさに、この、公正な第三者の前で対等なもの同士が討論する形式こそ、現代日本の美術家、村上隆がスーパーフラットの概念を提起するとき、自分の立論の前提とすることが叶わなかったものでした(3の1:24-31)。日本語人には、この公正な第三者の前における討論という形式を、自分たちの言語行為の暗黙の前提とすることが難しいのです。
98. この難しさは、日本語の発話が必ず社会的な上下関係を織り込んで遂行されることと、事実および論理はそもそも社会的関係を超越して作用する規準であることのあいだに生ずる不整合に起因するのではないか。言いかえれば、事実および論理と話者の対等性のあいだには何らかの連関があって、日本語を何の気なしに不用意に使うと、話者の対等性が保たれないせいで、事実と論理がうまく作用しなくなる。こんな事情があるのではないか。観念説を検討するなかで、こういった問題を分析する手がかりが得られるかもしれない。そうひそかに期待しています。
99. 人は心の中の観念を通じて唯一の神を求めるが、同時に人々のあいだで神の観念は異なりうる。この唯一性と多様性の共存の構造こそ、西洋近代文明を理解する鍵であり、かつ最大の謎です。唯一の神を信じることと、人々の信じる神がそれぞれ別であることが、なぜ共存できるのか。この共存の構造は、「観念」という言葉が広く受け入れられるとともに実現されていったように見える。これが観念説を検討する大きな理由です。
3.観念説についての三つの問い
100. 以上から、観念説について問うべきことが幾つか示唆されます。
第一に、いつでもどこでも、人は皆それぞれの心の中の思考と感情にもとづいて生きていることが事実であるとしたら、西洋近代においてのみ、なぜ特にその事実から出発する、つまり個人の心の中の観念から出発することが選択されたのか。
第二に、個人の心の中の観念から出発するとは、具体的には何をどうすることなのか。
第三に、個人がある信念を抱きながら、同時に懐疑を社会的に遂行するという仕組みは、どのようにして(どういう条件の下で)作り出されるのか。
101. 個人の心の中の観念から出発することを、いま仮に「個人主義 individualism」と呼ぶとします。すると、第一の問いは、個人主義の起源を問うものと言えます。第二の問いは、個人主義の実質を問うもの、第三の問いは、個人主義と社会との関係を問うもの、となります。
102. この三つは、いずれも大きな問いです。列挙はしたものの、私の中に解答がすでに存在しているわけではありません。あの辺を掘り起こしてみれば何か出てくるかもしれないな、という感触があるだけです。というわけで、とにかくこれらの問いを念頭において、初期西洋近代の観念説についてしばらく考えて行くことにします。
4.観念とは何か
103. 「観念」とは何か、第2期に述べたことを確認しておきます。第一に、現代日本語の「観念」は、西洋近代の哲学文献に見られる「idea〔英〕」「idée〔仏〕」「Idee〔独〕」といった語の訳語です。「観念」は、元来「仏陀の姿や真理などに心を集中してよく考えること」(広辞苑)という仏教用語だった。「idea」は、平たく言えば「考え」ですから、「よく考えること」を意味する仏教用語「観念」が訳語として転用され、定着したようです。(2の26:1064)
104. 第二に、「観念」は、西洋近代哲学の文脈では、「意識の内容」を言います。考えていること、知覚していること、記憶していることなど、さまざまな意識の内容はすべて「観念」と呼んでよい。例えば、「リンゴの観念」とは、リンゴの概念的理解であったり、眼の前に見えているリンゴの知覚像であったり、記憶しているリンゴの心像であったりする。いずれも、その人の意識の内容と呼べるものです。(2の26:1065、2の27:1075、2の32:1272)
105. 第三に、観念とは、各人の意識の中にあって、他の人には原理上うかがい知れない私秘的な(private)対象であるとされます。私たちは、普通、それぞれの人の心の中はその人自身しか直接とらえることはできないと考えています。心とその内容に関するこの特徴は、心のあり方にかかわる人類共通の約束事であり、心の「私秘性(privacy)」と呼ばれます。(2の27:1079-1102、特に1086-1089)
106. 第四に、観念とは、心の中にあって、心の外にある何かを表すはたらきを備えているとされます。例えば、私が友人のことを考えているとしましょう。観念説の言葉遣いで言えば、これはその友人の観念を心の中に持つことです。そして、その観念は現実世界のその人物を表している。デカルトも、観念は本来は「ものの像」ないし「事物の似姿」のことだ、と言っていました。(2の32:1288)
107. ものの像でない観念として、たとえば「ちなみに」という単語の理解といった例を挙げることができます。「ちなみに」を使うことができる人は、この言葉の理解(または意味)に相当する意識内容を持っているはずです。意識内容はすべて観念と呼んでよいので、「ちなみに」の理解も観念と呼んでよい。ところが、「ちなみに」の観念は、言葉の使い方の理解であって、ものの像ではありません。
108. しかし、「ちなみに」の観念が言葉の使い方の理解であるなら、この観念は、とにかく、「ちなみに」の用法を〝表して〟いるとは言えそうです。言葉の用法とは、心の外で成り立っている社会的事実です。というわけで、ものの像ではない観念の場合でも、観念は心の中にありながら、心の外にある何かを表すはたらきをもつ、と一般的に言って差支えないと思われます。この、観念が何かを表すはたらきは、観念の表現性、または表象性、あるいは志向性、などと呼ぶことができます。
109. 第五に、観念は、それ自体として見れば、偽になることはない、とされます(2の32:1289-1290, 1295)。この特性は、観念が何かを表すはたらきを備えていることから説明できます。ある人が、ニワトリの観念として、脚が4本ある鳥の心像を持っているとしましょう。その観念は、現実世界のニワトリと関係づければまちがっている。しかし、心像それ自体として見れば、脚が4本あるだけで、まちがいではない。このように、ある人が持っている観念は、それ自体として見るかぎり、「その観念はその観念である」という同語反復の真理性を失わない。つまり、決して偽にはならないわけです。
110. 第六に、観念は何らかの原因によって心の中に形成されます。ジョン・ロックの生きた17世紀後半には、パイナップルという美味な果物があることがヨーロッパの人々にも知られていました。しかし、パイナップルを食べたことがある人は少なかった。大半の人はパイナップルの味の観念(感覚経験)を持っていません。でも、一口食べればその味がわかり、パイナップルの味の観念が得られる。この場合、心の外にあるパイナップルそのものが、パイナップルの味の観念の原因です。
111. デカルトは、神の観念は神自身によって人間の心の中に置かれたと言いました(2の36:1509)。この場合、神の観念の原因は神そのものです。しかし、現代日本語人の多くは、デカルトと違って、神の観念の原因が神そのものであるとは考えないでしょう。ある人のもつ神の観念は、その人が暮らす社会の言語や思考や行動の慣習を通じて形成される、と考える人が多いと思います。こういう場合は、諸々の社会的慣習が神の観念の原因であると考えているわけです。いずれにせよ、観念はこのように因果的な連関のなかで形成されます。
112. 以上をまとめると、観念とは、外からの因果的な入力に応じて心の中に形成される意識内容であり、かつ、心の中から外へ向かう表現的な出力としての意識内容でもある。この意識内容は、本人にしかとらえることができず、また、それ自体として見れば、偽であることはあり得ない。したがって、観念説の目指すところは、自分だけがとらえていて、自分にとってはまぎれもなく真であるような意識内容から出発して、人々と共有できる真理と善と美へと到達する道筋を見いだす、ということになります。
5.前途瞥見 ――第一の問いについて
113. 観念説に関する第一の問いは、個人主義の起源を問うものでした(100 & 101参照)。いつ時代のどんな社会でも、人は心の中の観念にもとづいて生きている。ではなぜ、西洋近代においてのみ、それぞれの人の心の中の観念から出発して真理や善や美に向かうという立場が選びとられたのか。次回からしばらく、この問いを取り上げるつもりです。
114. この問いは、二つの部分から出来ています。前半の「いつの時代のどんな社会でも、人は心の中の観念にもとづいて生きている」という事実の部分と、後半の「なぜ、西洋近代においてのみ、それぞれの人の心の中の観念から出発して真理や善や美に向かうという立場が選びとられたのか」という問いの部分です。
115. 前半の記述は本当なのかどうか、まずそれを確かめる必要がある。私の見るところ、これは本当です。人は、本人だけが接近できる私秘的な意識内容をもっていて、それにもとづいて周囲の環境を認識し、外界に対して働きかけている。
116. ただし、これは非常にややこしい問題になる。というのも、ある意味では、イヌやチンパンジーもまた、同じようなやり方で生きていると言えそうだからです。人は、他の動物とは違う仕方で私秘的な意識内容を持つ、と主張できないと、ちょっと困るかもしれません。これを主張するためには、発達心理学を参照する必要があります。次回、3歳から5歳にかけての幼児の発達過程の研究を参照して、心の私秘性がわかるとはどういうことなのかを考えます。
117. 後半の問いは、思想史的かつ社会学的な問いです。個人主義は、どのような思想的ならびに社会的要因の複合によって、西洋近代において選び取られることになったのか。次回以降に、先行研究を参照しつつ、私の思いつきを相当まじえて回答することを試みます。
118. というわけで、次回は、心の私秘性をめぐる発達心理学の報告を取り上げて考えます。11月9日(土)に公開する予定です。
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