この世界との向き合い方
改憲を目的として、政府、首長、マスメディアが一体となって大衆を騙し続け、まん延防止措置を発動させました。
未だにマスメディアはPCR陽性をそのまま感染者として位置づけ、怖い、大変だと騒ぎ立て、それを真に受ける大衆の一部がこの騒動を終わらせないわけです。
医者は自らの懐を暖め続けたいとコロナの恐怖を煽り、それに従う他の医療従事者は猛毒注射を十代の子どもにまで接種させます。
大衆の中には、PCRを受け続け陽性になれば、加入中の保険から保険金が下り、その上仕事を休むことができるためにこの検査方法を悪用している者もいるはずです。
私自身ももしPCR陽性になれば120万円貰え、仕事を休むことができ、これを繰り返せばまるでベーシックインカムのようにできます。
大手保険会社は政府とズブズブの関係にあるために、未だにマスク着用の強要やソーシャルディスタンスをしっかり取れ、二人で昼食に行くな、ワクチンはいつ打つのかと従業員に圧をかけると言います。
このような杜撰な検査で感染症を判断することに異を唱えない保険会社は、事実上社会悪を作る企業であると言え、少なくとも新型コロナを煽る勢力に助力していると言わざるを得ません。
厚生労働省は悪魔の如く、多数の死者を出している治験を止めようとせず、あろうことか十代の子どもにまで接種させようとしています。今後は確実に乳幼児にまで手を伸ばしてくるでしょう。
厚生労働省の官吏の皆さんは、控えめに言って人殺しです。国家の本質が組織された暴力の独占とは言え、小さい頃から猛勉強してなった官僚という勝ち組の到達点が、「人殺し」ではあまりに気の毒ではありますが、いくら天下り先が欲しかったり、出世したい、製薬会社に逆らえないという理由があったとしても、万死に値する罪を、十字架を背負うことになります。
国会議員、政治家にしても与野党揃ってコロナワクチンを推奨、推進し、またインチキPCRを推進している現実は与野党グルの認識をますます深めてくれます。
この調子で改憲を行います。
地震も刺殺もまん延防止措置も報道されるすべてのことが改憲への布石として機能させようとしています。
無論、彼らが逮捕されることはありません。しかし、法が許しても人の心は許しません。
世の中、意外と因果応報ですし、プラマイゼロといいます。
本人たちは端から見れば愉快そうに、楽そうに見えても心の闇は確実に育っていきます。
それを刹那的な快楽で解消するのでしょうし、また、そのようなことを肯定する神を信仰するようになるのでしょう。
彼らからしてみれば私達は、悪魔の生贄として存在している検体、マウスに過ぎません。
マウスだから、検体だから、ろくに思考もせずに上から与えられた情報を手放しで受け入れて、その結果子どもを殺し、社会を腐らせていきます。
答えを欲しがるのに、その答えを拒絶し、結局何もせずに他人に責任を押し付けるような人間が、依存によって答えの価値を軽くするのです。
見ててください。
このワクチンで子どもに被害を与えた大人たちは必ず、それを「誰かのせい」にします。
そのような依存が有名人を持ち上げたり、権威主義となるのです。「有名人が声を上げた」、「〇〇よく言った!」といった話題には一喜一憂してはなりません。もはや利用すらできないほどに暴かれています。スポーツ選手や医師、大学教授などの有名人はすべて役者と思ったほうがいいでしょう。
私達は洗脳という手段で、壮大な幻想、幻影という檻の中に生まれてからずっと閉じ込められてきたのです。
「この世界を知る」ということは脱獄のようなものです。
イデア論の洞窟の比喩ではありませんが、檻の中にいる一般人に外の世界を伝えても理解できないのはある意味では当然なのです。
では、この世界を知った者たちが、どのようにこの世界と向き合えば良いのでしょうか。この狂った現実を嘆きたくもなりますが、それでも世界は無慈悲なまでにイカれたままです。
自ら思考する者は必ず孤独になります。
当然、無思考な人間が大半なわけですから自ら思考するというだけで少数派となります。
社会からの疎外感、それまで所属していたコミュニティからの孤立、理解されないことの寂しさや無力感などこういった虚無が襲ってくることでしょう。
しかし、それこそ人が人であるために必要な過程であるとも言えます。
人間は考える生き物です。自ら思考したからこそ、そのような虚無と対峙する機会が与えられ、それに対する行動、意識によって魂が磨かれるのです。
簡単に言えば、強くなるための壁です。
弱いままで良いという主張もあるでしょうが、「知った者」には知った時点で責任が生じます。それが「伝える責任」です。
知識や知性は、それを求める者を弱者として放置しません。
必ず苦悩や対立、葛藤を与えそれを乗り越えさせようとします。
それでも弱いままで良いというのなら、その人は屈服したと言えるわけです。
虚無に抗い、孤独を武器に変換する方法はひとつしかありません。
それが「慈愛」です。
誰もが幸せになりたいと願いながら、奪ったり、殺し合ったり、騙し合ったりしている世界です。
そのような人間ばかりで、自分もそのような人間と同類であり、心に秘めた残虐性から目を背けず、それを認識、理解することによって自身の理性や良識、慈愛の心を培うことができます。
私が言うのもなんですが、愛の力は偉大です。
愛も歪んだ正義に変貌することがありますが、その愛は実は愛ではなく、「自己顕示欲」の産物に過ぎません。
心は常にゼロの状態、ニュートラルの状態で慈愛を実践するしかないのですが、これがなかなか難しいのです。
「この人に伝えても無意味だ」、「伝えて恨まれるだけ損だ」というもっともな意見もあるでしょう。
伝え方を変えたり、恨まれたりすれば人間関係の整理ができたと思えば良いのです。そんなに「簡単に割り切れない」という声も聞こえてきそうですが、それこそ最近の私の記事で伝える「依存」なのです。
個人の人生というストーリーは終わりと始まりで進んでいきます。過ぎ去る人がいれば新しく出会う人もいます。
去っていく人との別れに伴う悲しみも、人生のルールのようなものですから、あなたの最期のときのエンドロールに入れてあげれば良いのです。
自分の弱さを自覚し、その弱さに対する反抗が即ち「自らを信じることであり」、「慈愛」なのです。
今回の記事はちょっと怪しい方向性になってしまいましたが、是非、”自ら思考して”あなたが結論を出してください。
”信者と書いて儲かると読む”
信じるのは自分だけにしておいてください。
「簡単すぎる人生に生きる価値などない。」
ーソクラテス
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