過保護で優しかった母の無関心と否定
他人の自分への無関心を感じると、私って無価値な人間なんだなって思うことがある。
こんなことができるようになったよ!とか、私はこんなことに気づいたよ!とかこういうふうに考えてるんだよねとかの発信をした時に、誰からも反応がなくて悲しい気持ちになるし、同じような発信をしているたくさんの反応をもらっている他人と比べてどんどん自分にダメ出しをしていってしまう。
最近やっと少しずつ、それは当たり前のことなのかもしれないと思えるようになってきた。
人が興味を持つのは、その人自身の意識に存在するものに対してなので、自分に関係のない物には関心が向かないもの。
他人から意図して無いものとして扱われてるわけじゃなくて、私が先に他人からの関心を欲しいという意識が「私は他人からは無価値な存在なんだ」という気持ちを生んでるだけ。
私はずっと、他人から関心を持ってもらいたかったんだなって思う。
小さい頃、うちの母親は私のことに無関心だった。一生懸命愛してくれようとしてたのも、私や妹のことで苦労して頑張ってくれてたのも知ってたけど、絵を描いたり歌を歌ったり話をしたり好きなものの話をしても、それに対して無関心で褒められたことがない。褒める前に「もっとこうしたらいいよ」とか「ここおかしい」とか「私はそれを好きじゃない」とか、否定されて感じるような反応が返ってきてた。
自分がどんなに努力をして頑張ったとしても、その喜びは他人にとってはそれを見たその瞬間だけで、目に入ったとしても瞬間的に喜びを感じたとしても、それは自分の成果ではないのでただ通り過ぎるだけのもので、自分の「できた!」とか「解った!」という喜びは自分が思う存分に感じてあげたら良いんだと思った。
自分で自分にできてないことは、他人からはもらえないし他人にすることもできない。
私が他人からの無関心を感じるのは、私が私自身のできたことややってるという行動に対して無関心だからなんだと思う。
「できてることは当たり前って思っちゃって無視しちゃいがちだけど、それができてることをもっと自分で褒めてあげられるといいよね」
今日長男に向けて出た言葉は、私が私に向けた言葉だったんだと思う。
うちの母親と私の関係と、私と長男の関係性は似てるなと改めて思う。
小さい頃の母の無関心と否定について書いてる最中に「これ私と長男だ‥」とちょっと苦笑いした。
もっと自分で自分に関心を持って、自分の「できた!」を喜んであげたいなって思う。
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