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自分「自信」

こんばんは。Chikoです。

突然ですが、思い立ったので私自身の話をしますね。

私はまぁごく普通の家庭に生まれて、兄一人、姉一人の3人兄弟の末っ子としてそれはそれは可愛がられて育ちました。(と、よく周りから言われます)

幼少期の私は興味を持ったものや人にはまっすぐ、いや、突進していくようなパーソナリティだったようで、その証拠に母からはいまだに何かの折に触れて、まだ私が2〜3才の頃に近所のスーパーで見かけた外国人のご夫婦に「Hello~」と、おもむろに挨拶しに駆け寄って行っていたという話をされます。

余談ですが、私は20代の頃はお酒を飲むとこの癖が割とでてました。見知らぬ人に話しかけたりテーブルに呼んだり呼ばれたり、いわゆる「賑やかし」をよくしていました。(苦手な方はスミマセン)

しかし、幼稚園に通っているときにあることがきっかけで引っ込み思案に。その頃に自己肯定感が急降下し、大人しい〜子になりました。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものですね。

それから中学までは、とっても地味な子でした。昨日まで普通に話していた子達と急に温度差が生まれて、教室内のグループを転々とする生活が一定期間続きました。まさに最大の暗黒期。

それでも仲良くしてくれる子たちがいてくれたのは救いでした。ただ、幼稚園での一件から意見を声に出していうことに抵抗を感じていたので、たまに自分の知らないところで仲良しグループの子たちが私抜きで遊びに行っていたという事実を後から知ったときでも、「次回は私も一緒に遊びたい」ではなく、ただただから笑いをする切ない感情を抱く時もありました。

そんな感情に支配されて、悲しいことに生きるのしんどいな、と思うようになってしまいました。それと同時に、さすがに自分の中で変わりたい、変わらなきゃ、という危機感にも似た感情も芽生え始め、高校入学と同時にメガネをコンタクトレンズにして鏡に向かって笑顔の練習を行うようにしました。(いわゆる「高校デビュー」ってやつですね)

それが功を奏したのか、高校では目立つ存在でもなかったけど、クラスの子達と分け隔てなく笑い合えるようになったんです。

今振り返ると、あの頃の自分は今以上に「努力して笑ってた」気すらします。当時はそれで満足でしたし、今も付き合いのある友人にも出会えたので無駄ではなかったな、と自負してます。

そう、皆さん、「無駄」なんてことは本当に何にもないんですよ。

聞いたことはもちろんあるだろうし、耳にたこ状態だとは思うけど、「今」頑張ってること、努力してることに「無駄」なんて全くなくて。

今、現在進行形では結果や成果が目に見えないしなかなか感じられないから


「あーもう嫌だー。何やったって結局何一つ変わらないじゃん。」

「いっそのことやめちゃおうかな。」

「・・・生きるの辛い。」


って思うこともあると思うんですよね。

私も実際何回思ったかわからないぐらい極限まで悩んだことももちろんあるから、よくわかる。(堂々と言うことでもないけど)

でも本当に、今日はコレだけは伝えたいと思って。


『無駄って思いながらやることに意義は無いし、意味もない。』


「わたしならできる」

「コレを続ければ私は変われる」もしくは「変わりたい」

そう胸に秘めながらやることにこそ本当の意義があって、価値が生まれる。意味が生まれる、って私は思います。

全部精通して言えることは、

「自分を信じてやれるかどうか」

コレに尽きると思うんです。

だからね。皆さんも、もし今まさに何かに挑戦していたり、これから挑戦しようと思ってる人も、もしかしたらぜーんぶ嫌になっちゃってる人も、

大丈夫。あなたならできる。

とは私は軽々しく言う事はできないけど

(むしろ仮に私から軽々しく言われたところで「会った事もないのに何を知ってるの?」ってきっとなりますよね?私なら思っちゃうかも←)

でも誰にでもできるのは「自分を信じる事」

呼んで字のまんまだけど、これが「自信」につながるわけで。

過去に縛られず進みだすのか、それとも恐怖や不安が先に立って足がすくんで動きだせずにその場に佇むのか。それは自分「自信」次第だと私の経験から感じます。

だからね、「頑張れ」じゃなく、


「自信を身につけて」


今日はここまで。お付き合いいただいた方、ありがとうございました^^

また来る「今日」に備えてあなたなりのご褒美を自分自身にあげてくださいね。

今日もお疲れ様でした。



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