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小夜
「君は僕の妻だったんだ」
彼女の両の眼は僕を映していなかった。
事実婚であったがために今まで面会ができずにいたと謝る。
虚ろな表情の彼女、小夜を僕たちの家に連れて帰った。
小夜は記憶を失っていた。
事件に巻き込まれ、そのショックで記憶がなくなってしまった。
まるで人形のようだった。
以前の姿と変わってしまったことに驚きを隠せない。
でもきっと乗り越えられる、そう思った。
家の中で立ち尽くす小夜を見かねて、ソファに座ることを促す。
小夜のためのマグカップに温かいお茶を用意する。
「どうぞ。」
小夜の手にカップを握らせる。
しかし温かかったカップはそのまま冷え切ってしまった。
食事を用意しても小夜は食べなかった。
一口分の食事を口元に近付けることでようやく食べてくれた。
そのことに少しほっとする。
全部は食べ切らなかったがそれでも食べてくれただけでよかった。
それからは献身的に介抱をし続けた。
次第に小夜は食事を自分で摂れるようになり肌に色つやが戻ってきた。
毎日のケアにより以前の彼女より一層輝いているように見えた。
何より僕に笑顔を向けてくれることが一番嬉しかった。
ふいに彼女の表情が消え、どこか遠くを見つめる。
「小夜。」
名前を呼ぶとくるりとこちらを見てどうしたのと言わんばかりに微笑んでくれる。
その姿に嬉しさを感じて胸を撫で下ろす。
遠くを見つめる小夜を見ると、どこかに行ってしまいそうで怖かった。
もう彼女を危険な目に合わせたくない。
療養のためにも小夜には家に居てもらった。
僕ももっと小夜の近くにいたかったが、自分が働かなければ小夜と暮らしていけない。
まだ身体の怪我も治りきっていない小夜を見ると胸が詰まったように苦しくなる。
だから家事も僕がやる。
小夜のためなら何だってできた。
「ありがとう。」
小夜のその言葉だけで力が湧いてくる。
絶対に大切にしよう。
そう胸に決めた。
会社から家に連絡をする。
「今から帰るよ。」
そう言うと電話の向こうでわかったと優しい声が聞こえる。
本当に幸せだった。
今日は仕事が多かったがいつものように早く家に帰りたかった。
おかげで家に仕事を持ち帰ることになってしまったが、小夜に早く会えるなら構わなかった。
玄関を開けるとおかえりと笑顔で迎えてくれる。
なぜだか涙が零れそうだった。
夕食を食べ終え自室に籠もる。
持って帰った仕事を終えなければいけない。
PCを開き取り掛かろうとしたその時、突然電話が鳴る。
上司からの電話だった。
ついでに煙草も吸ってこよう。
そう思い、電話を取りながら自室を出た。
結構な長話になってしまった。
これから仕事に取り掛かるとなると億劫だな。
自室に戻ろうとすると何故だか違和感を感じる。
その正体が何だか分からず、PCの前に座る。
そこでようやく気が付いた。
全身の血が引いていくのを感じる。
手が足が急速に冷えていく。
いつの間にか家を飛び出していた。
どうやって家を出たのか分からない。
いつの間にか外を走っていた。
走って、走って、走った。
本当に走れているのかさえ分からない。
身体の使い方も力の入れ方もとうに忘れてしまった。
ただ行かなければいけない。
その思いだけだった。
PCに映っていたのはある事件のニュースだった。
それは夫婦が心中をしようとしたという内容だった。
部屋に火を付け共に死のうとしていた。
しかし結果は夫だけが亡くなり、妻は病院に搬送され今も生きている。
ネットニュースに載っていた妻の名前、それは小夜だった。
おそらく小夜はPCで自らの名前を検索したのだろう。
そしてあの忌々しい事件を目にしてしまった。
なんという事だ。
今まで目に触れないようにスマートフォンすら与えなかったのに。
油断した。
普段あの部屋には入ってはいけないと散々言っていたのに、不注意で自室の鍵を閉め忘れてしまったのだ。
そしてその隙に小夜は部屋の中にあるPCを見つけてしまった。
あろうことかそのまま自分の名前を検索してしまったのだ!
ああ、小夜。
せっかく一緒になれたのに。
僕を置いてどこかに行ってしまわないでくれ。
仕事も家事も全部する。
面倒事はすべて僕に任せてくれ。
君の好きなもの欲しいものをすべて与えよう。
ああ、やっと、僕に笑いかけてくれたのに。
肺には酸素が回らないし、視界がぼやける。
手足は冷え切っているのに、異様なほどに汗が流れる。
彼女と一緒に消えてしまった一つの包丁が嫌な予感を加速させた。
一目惚れだった。
あれほど美しい人を僕は見たことがない。
どうしても彼女を手に入れたかった。
しかし小夜のことを知ったときにはすでに夫がいた。
そのことがより熱を増幅させた。
何故あんな男に笑いかけるのか。
どうしてあんな冴えないやつを。
どうしても手に入れたかった。
それなのにあの事件が起こってしまった。
手に入れられなくなる。
言語を絶するほどの恐怖心に襲われた。
2人は事実婚だった。
そして小夜は生きていて、記憶を失った。
利用できると思った。
彼女のために生活用品をすべて揃え、そして迎え入れた。
我が家のように僕の家での暮らしに慣れていく小夜を見て舞い上がるようだった。
この幸せがずっと続けばいい。
そう思っていたのに。
髪の乱れなんかどうでもいい。
自分自身が今どんな顔をしているのか分からない。
闇夜の中で自分が別の何かになってしまったようだ。
それでも一番大事な彼女への思いだけはしっかりとあった。
それを自分が自分たらしめていた。
目の前にはアパートがあった。
全身で呼吸をしながら迷わずとある部屋に向かう。
部屋に進む足は自分のものではないかのように動かしにくい。
破られたテープを見る。
いやだ、まさか、そんな…。
転んでいるのか進んでいるのか分からないがとにかく中に入る。
部屋の中は炎の力で何もかもが歪んでしまっている。
燃える前と同じものなど何一つないはずだった。
それなのに彼女はここに戻ってきた。
思い出なんてすべて燃え去ってしまったのに。
黒く無様に形を変えたこの場所に一体何があるというのだ。
真っ黒い地獄のように色のない世界でただ一人
彼女だけが色付いていた。
彼女は最期まで、美しかった。