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「ドライだよね」と言われる!それは「人と繋がりを感じる層」が違うから

友達に「ドライだよね」って言われた。

確かに私は自分でもドライな方だと思う。最近はそんな自分で全然いいと思ってるんだけど、いざ友達に言われると改めて「他人の目から見てもドライに見えるのか!」と思ってしまう(笑)。

そんな私のドライエピソードを聞いてほしい!

今回の発端は、ここ数年仲良くしてた友達の1人が遠方に引っ越した事だった。飛行機と船を乗り継ぐ必要があるくらいの遠方で、前みたいに集まって遊んだりはできなくなった。かと言ってzoomで話したりするほど共通の話題もないし、何か相談をするほどの仲でもないし、わざわざ会いにいくか?って言われると多分行かない。そんな距離感の関係。

それでも私は全然平気で、むしろそのくらいの距離感はすごく好き。その友達のことは好きだし、会いたくないわけでもないよ。会ったらまた楽しく遊ぶんだろう。でも今わざわざ会って当たり障りのない話をするよりも、ただ「あの頃あの人とスノボ行って楽しかったな」って思えたら、私にとってその感覚が一番リアルに感じられる。

そんな感覚で生きてるもんだから、話の流れでつい正直に「もう会えないだろうけど」的なことを言っちゃって、「相変わらずすげードライだな」って言われました( ;∀;)

・・・なんか書いてて私が悪かった気がしてきた。正直になればいいってものじゃないよな。こういう時こそ大人として「また会いたいね」って言うべきだった。ごめん。

***

そんな感じで、私には「もう会えなくなる」ことへの抵抗が少ないというか、「会って時間を共有してこそ繋がっている」みたいな感覚がたぶん人より少ないのだと思う。

会えなくなっても「当時会ってた時間があるから今の自分がいる」っていう真実は変わらないし、自分の中にその頃の友達のエネルギーがちゃんと生きてるならいい。それで十分「繋がってる」と感じられる。

それは死別で会えなくなっても同じで、そういえば親友が亡くなった時の片見分けも辞退させてもらったし、祖父が亡くなった時も私だけ「遺髪はいらない」って言って固辞したんだった。だって私が生きてる間はずっと忘れないから、それでいいんじゃないのと思う。

もちろん誰かが亡くなったら私だって感情も動くし、泣くし、引きずるし、もう肉体で会えないのは悲しいし寂しいと思うよ。大切な相手が死ぬかもしれないってなったら動揺もする。でもだからと言って、お葬式で「早すぎる」「さぞ無念だろう」とか言い合う気持ちはちょっと分からない。いや分かるけど同じ気持ちにはなれない。

死だって単なる「変容」の一部で、肉体を離れたからって存在そのものが消えるわけでもない。肉体で時間を共有したあの一時、影響を与え合ったことがエネルギーとして自分の中に残っているなら、それこそ死んだ後もずっと繋がってるってことだ。その繋がりこそリアルじゃんって思う。

だから寂しいけど寂しくない、悲しいけど悲しくないんだよ私には。

・・・ここまで書いてみて、私がドライと言われるのはあれだ、「どの層で人との繋がりを感じているか」が違うからなんだな、という仮説にいたりました。

私にとっては、いつだって目に見えない層の方がリアル。

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