02_考えの整理

僕が死んだら思い知れ、という呪いについて

まとまらなかった、筋の通らない文章がこの後続きますが、下書きばかりが溜まり始めているので、いったん公開します。

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僕が死んだら思い知れ、という思いが浮かんで、即座に「そういうことは考えてはいけないんだった」と心の中で打ち消した。とにかく、理屈は考えず、この呪いが顔を出したらすぐに「そうじゃなかった」とキャンセルしなくてはいけないのだ。腑に落ちないことも多いが、経験から、そうするよう努力している。

まず、思い知らせるということは、相手にこちらの指定通りの考えや感情を抱かせる、ということだ。これ、難しすぎるだろう。

芸術作品で人を感動させるのも大変だが、それだって、通常は「作者の指定通りの感想を持ってくれ」なんて国語の問題みたいなことはやらない。しかし、「僕が死んだら思い知れ」の場合は、「僕が死んだら後悔しろ」や「僕が死んだときに苦しめ」といった、作者の細かい指定が内心にある。「僕が死んだら何かしら思え」程度の場合もあるかもしれないが、相手が何も思わない可能性だって大いにあり得る。

それに、相手に何かを思い知らせるという目標では、自分に得られるものがない。

命をかけたら死んでいる。そうでなくても、「僕が転校したら彼女は後悔するかな」、「僕が救急車で運ばれたら彼は苦しむかな」というのは、かけたものに対して、返ってくるのが相手の気持ちの変化だけだ。割に合わない。しかも、多分これはそうそう期待どおりにはならない。

実際のところ、「僕が死んだら思い知れ」と思うときには、既に自分のことはどうでもよくなっている。自分の命より、相手を苦しませることを優先する。

ところで、僕だけかもしれないが、この仮定をするとき、案外お金や健康は差し出さない。「僕が一文無しになったら思い知れ」とか、「僕が下痢体質になったら思い知れ」とかは、あまり思わない。と言うか、惜しい、という気持ちになる。命は惜しくないけどお金は惜しい、健康も惜しい。何だかねじれている。分かるんだけど。

お金が、とか、健康が、とか考えるときには、多分まだ生きる気力があるのだ。より良い状態でありたい、という欲がしっかり残っている。

命のほうが軽いのだ。同時に、死んだらおしまいよ、だ。明日死ぬなら、全財産を使い切って、法も気にせず好きなことをするかもしれない。ほとんどの人は、明日死ぬように生きることはできない。明日も多分生きているだろうという前提で、今日を生きる。

僕が死んだら思い知れ。でも、明日も多分生きている。本当にするには死ぬしかない。それにしたって、思い知れという目標はどうなんだ。ああ、分からなくなってしまった。だから理屈じゃなくひとまずキャンセルしておこうと思ったのに。

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