ジャスパーモリソンとホワイトボード
最近、うまく眠ることができない。ちゃんとベッドに入るのだが、どうにもなかなか寝付けない。日中はほぼずっとPCの前にいるし、寝る直前もスマホを眺めているので、脳が興奮していて寝付けないのだろうとは思うのだが、だからといってその習慣を簡単にやめられたら誰も苦労はしない。人間は意思の弱い生き物であり、僕もご多分にもれず意思薄弱である。仕方がないので寝ることを諦めてベッドを抜け出し、PCの前に戻り、何か書いてみようと思う。
PCやスマホを悪者扱いするわけではないけれど、最近、脳が落ち着かない気がしている。例えば友人に返信をしようとして、スマホを手に取る。そしてさっき開いたままのニュース画面に、新たな気になるニュースを見つける。そのニュースに纏わる皆の反応が気になりSNSの投稿も見たりしているうちに、他のアプリから通知が来たりする。そんなことをしていると、ブラウザのタブやらアプリやらが大量に立ち上がっていて、気がつくと始めにやろうとしていたことを忘れてしまっている。脳があまりに短絡的かつ反射的に反応するので、出発点を見失ってしまっているのだと思う。もしかすると、僕が眠れないのは、眠ろうとしていたことを脳が忘れてしまうからなのかもしれない。
この矢継ぎ早な反応に抗うには、どうすれば良いだろうかとぼんやり考えていて、ふとジャスパー・モリソンがデザインしたMP02を思い出した。この携帯電話は、電話と最低限のSMSくらいしかできない。にもかかわらず、妙に惹かれてしまったのだ。
「無駄を削ぎ落としたミニマルな携帯電話ってなんか良いよね」と同僚に話したところ、真顔で一蹴された。「退化でしかない、無駄でしかない」と。話す相手を間違えたと後悔しつつも、自分がただの懐古主義者なのか、ひねくれ者なのかと悶々とした。でもなんだか違う気もする。この時代に逆行する感ある携帯電話の不思議な魅力は何だろうか。脳の矢継ぎ早な反応に抗える気がするのはなぜだろう。
さらに似たような話をするが、少し前に小さなホワイトボードを買った。(正確に言うと妻が買ってきてくれた。)紛れもないただのホワイトボードなので、書いたら消さなければいけないし、一度消したものを取り消してくれるわけではない。もちろん、自動的にスキャンしてくれるわけでもないので、記録したければ写真を撮ったりしなければならない。こんな不便な問題は、今やiPadさえあれば、全部解決できる。タップすれば、色も変えられるし、簡単に消すことができる。簡単にデータで保存できる上に、手も汚れないし、書くスペースの制約もない。さらには、気になったことをすぐに検索できる。
でも僕はホワイトボードが良かった。書くことしかできないホワイトボードが良かったのだ。なぜだろうか。きっとジャズパーモリソンの携帯電話に惹かれる理由と同じだと思う。
思うに、僕が惹かれたのは、「捨てるという自由」ではないだろうか。制約が多ければ多いほど、柔軟性は失われるし、きっと不便にもなる。けれど、不便さや不自由さを受け入れ、「これだけしかできない」と割り切ることは、残された数少ない「できること」の価値を高めてくれるのかもしれない。「これだけしかできない」というのは、とても肉体的な感覚に近いように思うし、脳が矢継ぎ早に行う反射や反応に抗う術になるかもしれない。だから書いて消すことしかできないホワイトボードや、電話とSMSしかできない携帯電話に惹かれたのだろう。
といっても僕は脳の専門家ではないし、とりわけ優秀な脳を搭載しているわけでもないから、ここに書いたことは完全に妄想であるし、結局のところ脳の矢継ぎ早な反応には全く抗えない気もしている。ただ不思議なことに何かを捨てることによって、捨てたはずの何かを結果的に得られることはあるようだ。
どうやら、先ほど諦めた眠気が、戻ってきた。