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貧乏性の街歩き

最近、靴箱の整理をしていたら、去年1週間バルセロナに行く直前に買った黒いadidasのスニーカーの踵部分に小さな穴が空いていたことに気づいた。迷ったけれど、比較的気に入っていたのでもう少し履けるだろうと思い、まだ処分しないことにした。

学生時代は電車賃をケチって、よく新宿から渋谷まで歩いたりしていた。特に、代々木から原宿にかけての道のりは、いかにも賑やかな駅に挟まれているにも関わらず絶妙に殺風景で、なんとも心に堪えたことを覚えている。

この貧乏性というものは、なかなかどうして抜けないもので、社会人になってからもどうも電車賃に対して勿体ないという意識が強い。人間には元来、利益よりも損失を過大評価しがちであるという性質が行動経済学にはあるらしいのだが(プロスペクト理論とか言うらしい)、200円程度の電車賃を嫌ってしぶしぶ1時間歩くことを選択するのは、評価を担う自分の天秤に致命的な欠陥があるような気がする。さらに厄介なことに時間が経つにつれて、この欠陥を自分の中で人間として正当化していく方向に成長してしまった感がある。そのため、日本だけでなく知らない土地や海外に行った場合でもとかく歩きがちである。

もっとも歩き慣れた山手線の駅の間とは違い、異国の地を歩くと景観が新鮮なので、格段に刺激的であることは間違いない。とはいえ、日頃から積極的に運動をしているわけではないので体力はない上に、それこそバルセロナなぞは、石畳の道も多かったりするのでとにかく足が痛くなる。最終的には、ただただ絶望的な足の痛みと全身の疲労感だけを残して、宿泊先で苦しむことも多い。

それなのに、どういうわけか街を歩くととても安心する。自分が東京でずっと生まれ育ったことと関係しているのかもしれない。自分の足を使って長々と歩くことで、身体にその街を馴染ませているのかもしれないし、その街にいる自分の居心地を確かめているのかもしれない。とにかく、そういうフィジカルな言葉にならない感覚が、なんとなく大事な気がしている。

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