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妊婦さんのため息

電車で坐ると高い確率で寝てしまう。あの揺れを自分のベッドで再現できないものかといつも思う。それはさておき、先日小田急線での出来事である。

いつものように微睡みから醒め、ふと、視線を上げると目の前に妊婦さんが立っていた。大きなお腹を抱えて苦しそうだ。こりゃいかんと、席をゆずるべく、あわてて立ち上がった。

妊婦さんは「いいんです、いいんです」と遠慮する。遠慮しないでください、どうぞ。やさしく勧めているつもりなのだが、何せ強面な俺。警戒しているのかもしれぬ。そこで、顔面ストレッチを無理やり敢行し、ありったけの笑顔を差し上げて着席を促す。

「でも〜、いいんですぅ」と、妊婦さんはそれでも遠慮する。すると、隣に坐っていたおっちゃんも「坐った方がいいよ」と助太刀。「大変だよね、今、何ヶ月?」なんて、相好を崩して話しかける。「俺んちの女房の時も大変だったのよ。もう30年前の話だけどね」なんて、周囲もほっこりである。

妊婦さんは、極めて遠慮がちに着席した。しかしながら、その表情は翳りを帯び、遠慮がちにうつむいたままである。やがて、妊婦さんは意を決したように顔を上げ、ぼそりとつぶやいた。

「すみません。あたし、ただのデブなんです。よく間違えられるんです」

ほっこりしていたあたりの空気が一瞬で氷結。隣のおっちゃんは、視線を泳がせたままである。この大きなお腹は、ただの肉塊だったのけえ?おっちゃんの目からは、そんなつぶやきがこぼれ落ちていた。

俺は、とりあえずなかったことにしようと、車内に視線をやる。『週刊実話』の中吊りが揺れていた。飲み込んだ苦笑いがやたらと苦い。人生は、思ったよりも重いものである。小田急線快速急行は、本日もみんなの人生を乗せてひた走るのであった。

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