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#012 F1サーキットにて(7)イギリスGP

 シルバーストーンは、ロンドンから北西方向に100kmあまり行ったオックスフォードとノーザンプトンの間にあると言えば、わかりやすいだろうか。距離的には、ノーザンプトンから行くほうが明らかに近い。オックスフォードからは約50km、ノーザンプトンからは約20kmといったところだ。

 交通の便を考えるとノーザンプトンだったが、初めての年(1990年)はオックスフォードの安宿(B&B)を拠点にして、ここから毎日車で通った。

 その年の1月に、オックスフォードから10kmあまりのディドコットにあるウィリアムズとウィットニーにあるベネトンのファクトリーを訪ねたとき、周辺を歩き回っていたので、オックスフォードにどうしても親近感が沸いたのだ。


 当時は出走台数が多く、予選に出る車を決めるために予備予選が行われていたので、金曜日はそれに合わせて午前7時前にはサーキット入りしなければならなかったから大変だった。

 当時は30台がエントリーしており、決勝レースを走れるマシンは26台だった。その内、前年の戦績によって上位22台は常に予選のグリッドに並べたのだが、残る下位の8台については、大会ごとに予備予選が行われ、そこで上位4つに入らなければ予選すら走れなかった。

 その予備予選というのが、金曜日の朝の8時から9時までというなんとも早い時間帯に設定されていたのだ。

 オックスフォードから通うとなると、5時には目覚ましをかけてベッドから起き出して、食堂に下りていくことになる。だが、この時間に食事の用意ができているということはないので、備え付けのコーヒーメーカーで入れたコーヒーでビスケットを胃袋に流し込んで出発、ということになるのだった。

 それでも、後部座席で寝ていける者はまだよかった。もう一人の記者が免許証を持っていないという男だったうえに、カメラマンもペーパードライバーで不安だったから、いつもこちらが運転することになり、眠い目をこすりながらハンドルを握るのが常であった。


 シルバーストーンへはA43号線を、北北西の方向にただただ真っ直ぐに上っていく。どこまでもなだらかな丘陵地が続き、牧草地では羊や牛の群れがのんびりと草をはんでいる。人影はほとんど見られなかった。まあ、早朝の7時前ということもあっただろうが、人間はどこにいるのだろうと思ったりしたものだ。

 イギリスを車で走ってみて思ったことは、サークル交差点というものの便利さだった。すべての交差点がそうなっているわけではなさそうだが、大体は日本のように2本の道が十時の形で交差する十字路でなく、サークル形式の交差点になっている。

 そのサークルは、まず右側からサークル内を走ってくる車と車の隙間を見つけて滑り込むコツを覚えてしまうと、とても便利だし、スムースに進む。

 サークルに入ったら、4分の1周したところが、左折方向の道路なので、左折する場合はそこを出る。直進する場合はもう4分の1だけ走って出ればよく、もう4分の1周したところが右折の方向ということになる。もし、出そびれてしまったときは、もう1周しながら、目的の方向に出ればよいというわけである。日本のように狭い国土(考えてみれば、イギリスも日本とそんなに変わらない狭い国土と言えるのだが)では無理かも知れないが、とてもよいシステムだと思った。


 シルバーストーン・サーキットは、もともとが軍用飛行場だっただけに、2本の滑走路のあとが残っており、それらを取り囲むように平坦なコースが取り囲んでいる。まったく高低差のない平坦な路面だ。

 決勝レースでは、プロストがメキシコ、フランスに続いて3連勝するのだが、思い出すのは、ここで200戦という最多出場記録を打ち立てたパトレーゼにインタビューできたことだ。

 監督のフランク・ウィリアムズさんに話すと、モーターホームでやればと言ってくださり、ご自身の部屋を提供してくださった。22歳でF1ドライバーになってから36歳のそのときまでの14年間を振り返って、お話をしていただいた。

 200戦という前人未踏の記録を達成したパトレーゼだが、デビュー2年目には大事故に巻き込まれ、ドライバー生命の岐路に立たされている。23歳で地元イタリアGPに出走したのだが、多重衝突事故(ロニー・ピーターソンが事故死した)に巻き込まれ、その責任を一身にかぶらされたのだ。危険なドライバーと他のドライバーから名指しされて追放の憂き目に逢いながらも、それを乗り越えて14年間戦い続けてきたのである。

 1977年に22歳でF1にデビューし、当時まだ大学生だったことから”大学生F1ドライバー”として注目されていたパトレーゼは、2年目の1978年第14戦イタリアGPのスタート直後に多重クラッシュに巻き込まれ、当時のスタードライバーだったロニー・ピーターソンが死亡した事故の張本人とされた。血気盛んだったパトレーゼの進路変更が、このスタート時の多重クラッシュの原因だったとされたのだ。だが、実際にはフォーメーションラップを終えてスタート位置に戻ってきた全車が停止する前に、スターターがスタートランプを点灯させたため、勢いがついたままスタートした後方集団がパトレーゼのマシンを押し出す形になったのが原因だった。そのことは、後の検分で確認され、撮影された写真を分析した結果も、パトレーゼが進路変更しようとしている時にはすでに完全にジェームス・ハントの前に出ており、十分なスペースがそこにあったことが判明した。

 パトレーゼの名誉は回復されたはずだったが、ピーターソンのマシンに直接接触した当時のトップドライバーだったジェームス・ハントは、引退した後もテレビ解説の都度、パトレーゼを酷評し続けた。

「あの事故のあと、自分はみんなが言うようなドライバーではないということを、証明するために走り続けてきたんだ」

 やめたら何をするつもりですか? と聞くと、こう続けた。「やめたあとのことは、そのときに考えるよ。やめたら、考える時間はいっぱいあるからね」

 パトレーゼは結局1993年までF1の舞台で戦い続け、足掛け17年をかけて通算256戦の最多出場記録を打ち立て、それは15年間破られなかった。
 引退も彼らしかった。1994年、どのチームからもオファーがなくシートを得られなかった彼に、シーズンが始まってから声をかけてきたのが古巣のウィリアムズだったのだが、彼はそれを断って引退した。この年ウィリアムズに移籍したアイルトン・セナがサンマリノGPで事故死した直後、後任としてのオファーだった。