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やっぱり村上春樹もシャーマンだった
新作『街とその不確かな壁』を読んで僕は確信した。
やっぱり村上春樹もシャーマンだったと。
『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の羊三部作と『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだときに僕は村上春樹はシャーマンじゃないかと感じた。なぜなら、主人公の親友鼠、耳のモデルのガールフレンド等、既に死んだ人が小説のストリーの中に出てくる。それも生きているように振る舞って。
新刊の『街とその不確かな壁』の中に登場する前図書館長の子易さんもそうだ。すでに死んでしまっている人なのだがストーリーの中に登場して主人公と生き生きと会話をする。
村上春樹は新刊の作中の後半でガルシア・マルケスの作品を引用して、主人公とコーヒーショップの女性にこう語らせている。
「彼の語る物語の中では、現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」と彼女は言った。「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」
また、新刊の後書きで、
ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。
とも語っている。
つまり村上春樹はずっと、他の人には見えないが自分が見えたり、この世と異界と繋がったりする事をテーマとしていたのだ。
本の数例を挙げれば、井戸を介して、この世と異界を繋がっている事をテーマとしたのが『ねじまき鳥クロニクル』だったし、古い遺跡を介して、この世と異界を繋がっている事をテーマとしたのが『騎士団長殺し』だったのだ。
他の作品もそうだ。
全作品を通じてテーマは一貫していたのだ。
彼はシャーマン。
読者は作品を読んで彼の世界にトリップするのだ。