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<my story>今の価値観だけにとらわれず、大切なことを次に繋いでいく①(学生~20代

自分がよいと思った道を無理なく当たり前に進んできました。何事も自分で決めて生きていく強さを母から私、私から子へつなげてきた私のライフストーリー。

繊維総合卸および法衣縫製業 組織支援室 室長 50代


【20代〜就活】憧れと現実は違うことを学ぶ

大学は青山学院大学、法学部でした。法学部を目指したのは、小学校の時に見た「白い巨塔」というドラマがきっかけでした。大学病院での医療裁判の様子をみて、すごく単純なんですけど「法律を知らなきゃ身近な人を守れない。」と子供ながらに思い、小学校の頃に法律を学ぶことに関心を持ちました。

原作本が家にあって、最初は難しくてなかなか読めませんでしたが、中学生になって改めて読むとだんだんと理解できるようになって。そうして法律を勉強するぞと大学受験で法学部を選択し上京しました。恥ずかしい話なんですが、大学に入ってみて「私に法律は向かない!」というくらい分からなくて。

憲法、民法、刑法。特に刑法なんて本当に何言ってるか全然わからない。
成績も本当にスレスレでよくぞ単位が取れたなくらいでした。

一方、夢中になっていたのはサークル活動です。子供たちに向けての歌のお兄さん、お姉さんみたいなことをしていました。

このサークルに入ったのも実は成り行きでした。最初大学入学時に勧誘があるんですけど、何かに入ることは決めていて、じゃあどこにしようかという時に、どこかわからないけれど「一番最初に声かけてくれたところに入ってみよう」と決めて最初に声をかけてくれたサークルに入りました。

子供の反応を見ながら柔軟に対応する力を身に付けられたサークル活動

とても面白かったですよ。サークルでの経験や学びは今にも生かされています。児童館くらいの規模でやることもあれば、屋外のお祭りやイベントで呼んでいただくこともありました。目の配り方とか間の取り方が、少人数のとき、大人数の時とは違うので、このサークルでの経験は今でもプレゼンテーションに生かされています。声の出し方とか、子供たちのリアクションによって変えてみることとか。特に臨機応変に対応する力はそこでつけました。

子供は反応も素直ですしね(笑)。

これらの経験があったので、人前で話すことにそんなに抵抗感がなく今に繋がっているように思います。

もう一つ力を入れていたのは、第二外国語での中国語でした。
中国語を選んだのは、高校の時に見たアニメ三国志から影響を受けたからです。めちゃめちゃかっこよかったんですよ。劉備玄徳とか、曹操孟徳とか。大学生になったら中国に行きたいなと思っていたので、そのためには中国語話せないとだめだなと思って。必修以外にも中国語取って、結局4年生まで学びました。

中国にも行きました。今で言ったら聖地巡礼みたいな感じですかね。四川省の方にはちょっと遠くて行けなかったんですが、北京など3週間くらい行ってきました。

思い描いていた世界と現実とは違うことを学んだという中国旅行

そして行ってみて学びました。
現実とはだいぶ違うなということを(笑)。

あとは、アルバイト家庭教師や単発のアルバイトをしていましたね。

なんだか振り返ると子供さんと接点を持つことが多かったですね。
教えていても、わかってくれないのはなんでかなとか、これでわかんなかったらどう言おうかなというのは、よい経験になりました。

自分がこれだと思ったら行動してきましたが、自分の中では特別なことではなくて、道筋が見えたらそのまま進むことが自分にとっては自然でした。

【就活】ここだと決めた会社へ自分で内定を取りに行く

就活時、その当時は女性は会社から補助的なニーズの方が高くて、総合職もありましたが、あまりガツガツ行く人は少なかったように思います。

就活にあたって、私はどういう風になっていきたいんだろうと考え導き出したのは、「長く働きたい、できるだけ上に行きたい。でもすべてを仕事に捧げるのではなく、結婚も出産もしたい。」ということでした。

こんな働き方をしたいというよりは、生き方をしたいという風に考えていました。でも方向を出したのはいいけれど、客観的にみて、こんな学生取りたい会社は少ないよなというのは自分でも感じていました。

とはいえ、「結婚するまでがんばります」と自分を偽って入社するのはちょっと違うかなというのは思っていましたし、自分を偽って入社した会社はきっと長続きしないと思っていたので、面接のときには正直に言おうと決めました。その当時のニーズには合っていないので、そりゃ落ちますよね。

でも姿勢は変えませんでした。

周りは名だたる誰でも知っているような企業に内定をもらったりしているんですよ。男子も女子も。短大の子も。そんな中で、自分はなかなか内定が出ませんでした。

今みたいにキャリアセンターが充実していたりインターンシップの機会があったわけでもありません。

男子の方が先にスタートして、女子は後。当時はリクルートブックと言って冊子が届くんですけど、男子には先に届いて女子には後から届くみたいな様子でした。法学部は男子が多かったので、余ったらちょうだいといって片っ端から資料請求をしました。

業界や業種にこだわらず応募して、そのうちの1社からやっと内定がもらえたんです。選考では、変な意味自分に諦めがあったように思います。「いうべきは言った!もう判断して!」自分でも、企業さんから見れば生意気だろうなとも思っていたし、それでも内定を出してくれる、来てもいいよと言ってくれる、受け入れてくれる企業にいこう!と思っていました。

ただ、実はその企業では決めず、別の選考中の会社により惹かれていたんです。

内定をもらった会社の承諾期限をギリギリまで伸ばして、これ以上待たせられないなと思ったときに、行きたいなと思った選考中の企業に電話をして、「今1社内定をもらっているんですけど、私は御社で絶対働かせていただきたいなと思っています。私の評価はどうだったんでしょうか。」と直接聞きました。人事の方が対応くださって、あとから思えばその方、採用の課長さんだったんですが、「はいはいはい、あなたね。内定ですよ。」と言ってくださって。「あ、ほんとですか!じゃあもう1社の方はお断りしても大丈夫ですか?いいですか?」「じゃあお断りしますので、是非御社に行かせてください。」という具合に決めました。

2社の中での決め手は、ありのままフラットに話を聞いてくれるというのをより強く感じたというところでした。

今で思えば、内定を取りに行ったということですよね。

でも当時の自分としては、期限があるし、決めるなら確認しなきゃという自然の流れの中の行動でした。

【1社目:広報部に所属】嫌だと思っていても締め切りはくる

選んだ会社は海外に本社がある半導体のメーカーでした。
プレスリリースの他に、製品カタログなどの販促物の制作や展示会の出展のプロデュースなどを担う広報部に配属となりました。

でも文系の私には製品の理解が全然追い付かなくて。

仕事上理解していないとだめだったので、部署関係なく色んな人に聞きまくり教えていただきました。
外資系企業だったので、公用語は英語でしたし。
それもあって、1年目はしんどかった。
入ってからの方が勉強でした。社会人勉強しなきゃいいけないんだってそこで痛感しましたね。(笑)

同部署では同期がいなかったので、周りの先輩は知識も経験も豊富な人たち。すごいなぁと思うと同時にこれは大変だと思ったけれど、周りから頼られ、信頼されている上司の姿をみて、この人を超えるんだと短絡的だけど目標にしました。
マネするじゃないですけど、何をやっているんだというのは常に見ていました。
それから、自分の中でミッションを作って、飲みに誘われたら部署を問わず絶対にいこうと決めました。忙しい中、製品のことを知識のない人に教えるのって、先輩方もイライラすると思うんですけど、一度ご飯を食べると距離が近くなったり、より深く話ができたりできるかなと。人間関係を大事にすることを心掛けました。

でもそれを努力と思っていなくて、自分の置かれている立場を客観的に見てみると、今の自分が考えるベストはこれだと思って動いた結果でした。

そんな中、ちょうど入社して1年経った頃、会社の業績がすごく落ち込んだ時期がありました。何が一番に削減されるかというと広告宣伝費。
広告宣伝費が8割カットになりました。派遣さんも更新できないし、もともと退職される予定の方もいらして、補充もなく。
10年くらい上の先輩と、直属の上司と3人になってしまいました。
6人でやっていたことを3人でやらなきゃいけない。
でも業務は減らない。

時間がいくらあっても足りないというのはこのことだなと思いました。
終わりが見えない。

でもあの時、数をこなしたことによって、あれだけしんどい思いしたことってそうそうあるものかと思うと以後の大変なことも気持ちに余裕ができたかな。

あんなしんどいのはそんなにやるもんじゃない。とは思っていますけれどね。

それでもその時に思ったんです。いやだいやだと思っても締め切りは来る。
やるしかない、一つ一つ片付けていくしかないんだって。

やらないという選択肢が当時の私にはありませんでした。
1年しかやっていないのに、辞めてどこが雇ってくれるのか。
次に何かを求められる時ってリーダーシップとかそういうものじゃないですか。でもそいうものは身についていないし、後輩もいない。
ここ辞めても行けるかどうかわからない、私にはまだ市場価値がないと思っていたので、辞める選択肢はなかったですね。

自分の置かれている状況が分かっていたように思います。

その後は同じ会社の人材育成を担う部署に異動したんですけど、それも自分から希望を出しました。

やっぱり、上司はすごいんですよ。営業部から異動で広報部に入ってきて、違う視点でものの見方ができる方でした。

上司を越えたい。じゃあ今ここで頑張りたいけど、このままやっても、どうなん?と違う見方が必要だから、これは異動するっていうのもありかも。逆説的ですがそう考えました。
その時には結婚をして、いづれ夫の実家京都に帰って会社を継ぐという事も分かっていたんです。
京都の会社でどういう役割を担えるだろうかと考えたときに、経理を学ぶということも選択肢としてはありましたが、今いるところは規模の大きな会社だったので、経理も一部分しかできない。
実家の会社の規模から人材育成とかっていうのは手付かずになっているんじゃないか。だったらやってみるのもありかもと育成部門への異動を希望しました。会社を利用して力を付けるというか。私の中でも果たしてどうなの?と思うところはあるんですけど、会社で残っている時間を考えると、無駄には出来ない。成長もしないといけない。この会社にも貢献したい。
思い切って部署異動の希望を出すことにしました。

希望を出した後、事業部長が話を聞きたいということで、私のつたない英語でアメリカ人の事業部長に改めて説明しました。それを真剣に聞いてくださって、ところどころ分からないところあるけど、熱意は分かったと。今すぐは出来ないけど、覚えておくから待ってっと言ってもらって。1年半ほど待ってに叶うことになりました。ありがたいな、いい会社だなって改めて思いました。部下約300人のうちの1人の個人的な話を時間を取って聞いてくれるんですよ。今考えてもすごいなと思います。

育成の部署といっても新しかったので、色々と手探りな部分があったんですけど、今までと全然違うカラー。
同じ会社の中でも部署によって全然違うんだなというのも発見でした。今度は広報部での経験が生かされました。

他にも、ワールドワイドでダイバシティプログラムというプロジェクトがあって、日本でのリーダーに推薦していただきました。本国の場合は人種のこともあったんですが、日本では性差に注目していたので、性差にフォーカスしたプロジェクトチームでした。

啓蒙活動が主でした。各地営業所、工場それぞれの場所で考え方が全く違ったり、年齢層も幅広くその中のまとめ役。着眼点ややり方、課題解決の見つけ方など本当に学びの多いプロジェクトでした。

この会社で経験したことはすべて今に生きていて、やってよかったと心から思います。

そして、大事な最初のキャリアを築いた1社目を退社し、京都へ来ることになります。

2へ続く


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