強がっていると、人生、損をする。・・・自分の弱みを堂々と見せる方が懸命な生き方!?
これは筆者の半生を振り返って思うことであり、あくまでも私見である。
親が法曹関係者であり、厳格な家に育てられた。しかし、昔ながらの家長制度も残っており、ちょうど真ん中にいる筆者は、上からは潰され、下からは突き上げられの幼少期であった。
幼友達も歳上ばかりで、体格が劣っていても、相撲や喧嘩は負ける訳には行かない。その幼少期に、異常なまでの負けず嫌いの性格を焼印されたように思えてならない。
負けず嫌いの性格だから、外面は強気の姿勢にて、絶対に脆弱なところを見せずに大人になってしまった。
周囲の人の中では、現在でもそうだが、「あの人は大丈夫。パワーもあり、メンタル強いし、頑丈にできている!」という人が圧倒的に多い。
以前、サテライトオフィスがメゾネットになっており、ビルの6階、7階、その間に中6階があった。
その中6階の6段ほどの階段から6階フロアへ落ちたのである。ワックスがピカピカなのは良いが、ツルツルとなっており、それが原因で滑り転けた。
その時、番組の手伝いをしていた男女が二人立っていたのに、誰一人として、手を引っ張り起こしてくれる人はいなかった。「大丈夫ですか?」の声は確かに聞こえたようだ。
二人とも社外の人間だが、私だったら、転けた人を見たら、直ぐに近づき、頭を打っていないか、その他怪我はないかをチェックする。
しかし、二人とも掛け声だけだったので、少々腹が立った。落ちる瞬間はスローモーションに感じ、一瞬で丸まって受け身をしていた。
頭や腹を打たぬように、瞬間的に防御姿勢になっていたのである。そこで男性に一言、「何故、手を伸ばして助けようとしないのか!?」と聞いてみた。
そこで返ってきた言葉が、「いや、体は筋肉質だし、大丈夫だと思っていたので。」と、大したことがないと感じたらしい。
普段の負けず嫌いの性格である筆者が、肉体的にもメンタルも全て頑丈にできているというオーラを放っていると言うのである。
この場合、筆者が普段から非力で痩せ細っている人間であれば、「大丈夫ですか?怪我はありませんか?」と手を差し伸べてくれたのだろうと。
その時の防御体勢が良かったのか、無傷のまま立ち上がった。しかし、立ち上がる前に、後頭部や側頭部、肩や腕、足腰などの無傷を確認し、さっと立ち上がった。
些細なことだが、これが全てを物語っている。
皆同じ人間なのだから、強靭なところも脆弱なところもある訳だ。ただ、それを日頃から表に出せる出せないで、周囲の人たちの受け止め方、考え方が異なることに気付かされた。
昔を思い出せば、小中高と2つずつ学校を渡り歩いた転校生(父の転勤)だったが、虐めに遭おうとする瞬間に、相手を全て瞬殺していた。よって、虐められて凹んだことなど一切ない。
幼い頃の先輩たちの激しい相撲や喧嘩で鍛えられたからこそ、絶対に凹まない人間になったんだろうと。しかし、自分で頭の中を覗けば、結構、繊細で傷付きやすい性格も持ち合わせている。
それを人前では絶対に出せないサイボーグ人間になってしまった。だから、ここ一番の時に、同情されることは皆無、心配されることも皆無、何でもかんでも無傷大丈夫な男である。
大声で、「私はそんなに強くはない!」と言いたいけれども、生まれてこの方、人前で涙を流すことはないけれども、映画を観ていて、感動シーンの最中に、熱いものが頬を伝ってくる。
畢竟、「私はそんなに強くはない!」を幼少期から披露しておけば、もっと楽チンな半生になったのかも知れないと思ってしまう。
何事も強がらず、迷いが生じたり、困ったり、辛い時には、心から信頼のおける人へ吐露することが一番なのかと。我慢することも大事であるけれども、我慢も度が過ぎれば、脳内に傷が残ることも頭に入れておいた方が良い。
逆に、「私は肉体的にも精神的にも弱い人間なんです!」と大声で言える人の方が、よっぽど精神的にも強い人間なのかも知れない。