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厚顔無恥な人物との不毛なる会話

 自戒を込めての話であるが、人は突然言ってはならぬ言葉を無意識に発することがある。これは、会話でもメッセージの交換でも言えることだが、一端の大人であれば、適切な言葉を選び、慎重に発言することが求められる。

 しかし、失言しても、謝れば一瞬にして全てが解決し、無罪放免になるのか!?失言を連発し、相手を罵り、その後、何回謝ったではないかと、逆ギレする人もいる。謝れば無罪放免と考えるのは都合の良すぎる話であり、「懺悔」という宗教観のように思えてならない。

 先日、ある人物(女性)から問い合わせがあり、メッセージの交換をしていると、言葉が刺々しく、全て反論するような口調に変わり、否定的な言葉を投げ掛けてきたのである。非常に感情的であり、支離滅裂なところが見受けられ、精神的に病んでいるのではないかと思ったほどだ。

 筆者のエッセイやコラムの評価として、「食事に対する価値観が違う」、「接する人種が違う」、「履歴に酔いしれている」、「ホテルランチは贅沢すぎる」、「コンビニで買うほど無駄なものはない」などなど、段々とエスカレートしてくるのである。「はて?」となる。

 よくもまあ、色々と難癖をつける人物だと呆れながら、遣り取りをしていたが、全く仕事にならない。さっさとチャットを切りたかったけれども、途中で、頭痛が酷くなったので後ほどと言ってきた。これ幸いに、さっさと引き上げることにした。何が目的なのか、理解に苦しむばかりとなった。

 若かりし頃に米国へ留学し、10年ほど住んでいたようだが、個人主義的に持論を押し通したいのは別に問題ないが、根拠のない難癖をつけるのは頂けない。よって、危険を知らせる警告ランプが頭の中に点灯し始めたのである。

 歪み切った自分スタンダードを押し付けるなど、要らぬ世話である。その履歴を見ると、とにかく転職が多く、長期に亘り同じところで落ち着いて仕事をしたという履歴がない。

 挙げ句の果てには、「そちらに出向くことがあったら、美味しい料理をご馳走してください。」と厚かましくも言い放つ。そこで、「いえ、私がご接待する理由もなく、ご馳走を振る舞うことなどできない。」と言うと、「ケチ」と一言。何と、モラルもエチケットもない人間に呆れてしまった。

 やたらと否定的な事を羅列しているにも関わらず、「謝罪します」を三度ほど書き込んだことについて、「何度も謝罪をしているじゃないですか!」と開き直る始末の悪さ。SNSにはこのような歪んだ人格を持つ人も多いので要注意である。

 最初からタメ口気味だったので、横着な人間であると予測はついたけれども、ここまで歪み切った人間はなかなかレアものだ。つい先ほど、考えに考えた末に、最終的にはブロックさせて頂いたのだが、その人物の意のままにならぬことが激昂に繋がったのだろうと。

 もしかすると、ストーカー常習的な人物だったのかも知れない。触らぬ神に祟りなし、である。最後の捨て台詞に、「私はカトリックなので、このような方とは会話が成り立ちません!」と更に激昂する。

 なるほど、カトリックという宗教語った瞬間に、冒頭で申し上げた「懺悔」が蘇ってきたのであった。何とも後味の悪いオチだが、その程度のものだったのだろうと、苦笑するばかり。

 英語を流暢に喋れるから、最初からマウント取りたかったのかも知れないが、悪いけれども、留学経験なくても英会話が堪能な人はたくさん存在している。勘違いも甚だしい。

 いやはや、疲れましたでござる。


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「厚顔無恥なる人物との不毛なる会話」は、著者が経験した困難な対話について、率直かつ詳細に記述されています。エッセイ全体を通して感じられるのは、著者の困惑と苛立ち、そして相手の行動に対する批判です。以下に、いくつかの感想を述べます。

1. テーマの明確さ

エッセイのテーマは、「厚顔無恥な人物との不毛なる会話」という点で非常に明確です。著者は、自分自身の経験を通じて、相手の無礼な態度や無意味な対話の難しさを描写しています。特に、相手の攻撃的な言葉遣いや根拠のない批判についての描写が詳細で、読者に相手の態度を理解させるための十分な情報が提供されています。

2. 感情の表現

著者の感情表現は非常に豊かで、読む人にその時の怒りや苛立ち、そして最終的な疲労感を強く伝えます。「呆れてしまった」や「疲れましたでござる」などの表現が、読者に著者の感情をリアルに感じさせます。また、エッセイの中での皮肉的な表現や、相手に対する苛立ちを感じさせる言葉遣いは、文章全体に独特のリズムを与えており、読者を引き込む要素となっています。

3. 相手の描写と批判

著者は相手の人物を「厚顔無恥」な人間とし、彼女の行動や言葉遣いを詳細に批判しています。特に、「懺悔」という言葉を使い、謝罪の軽さや無意味さを指摘している点が興味深いです。これは、著者が相手の謝罪が本心からのものでなく、単なる形式的なものであると感じていることを示しています。また、相手の「履歴」や「転職が多い」という点にも触れ、彼女の人格や信頼性に疑問を投げかけています。

4. 対話の無意味さと教訓

エッセイのタイトル通り、著者はこの対話を「不毛」と感じています。相手が根拠のない批判や否定的な言葉を投げかけ続ける中で、実りある会話を期待することが無意味であるという教訓を得ています。この点で、エッセイは単なる愚痴や不満の表明にとどまらず、読者に「無意味な対話から距離を置くことの重要性」を示唆しています。

5. 結論とユーモア

エッセイの最後で著者は、「英語を喋れるから最初からマウント取りたかったのかも知れないが...」と述べ、相手の行動の背後にある可能性を軽く皮肉っています。これにより、エッセイは単なる苦々しい体験談ではなく、読者に対して軽い笑いを誘う結末となっています。こうしたユーモアの要素は、エッセイ全体のトーンを軽やかにし、読者にとって読みやすいものにしています。

総評

全体として、このエッセイは著者の困難な対話体験を率直に描き出し、相手の無礼な態度や不適切な行動を批判しています。著者の感情表現とユーモアが組み合わさることで、エッセイは読み応えのあるものとなっており、読者に無意味な対話から距離を置くことの重要性を考えさせる内容になっています。

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西田親生@D&L
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