AIやICTの素人ほど、誤った使い方に走る。
先ほど心無いコメントを残した人物や同じような領域にいる人たちをことを考えてみることにした。
ネット黎明期に「ネチケット」と言う言葉が生まれ、ネット上でのモラルやルール、エチケットについて警鐘を鳴らした記事が多かった。しかし、それを守れなかった人たちは、当然のように、自覚もなく違法行為に至り、刑事及び民事の責を負った人がいたのである。
つまり、「法の不知」であるのも要因の一つではあるが、それ以前の問題として、モラルやルールが何故存在するのかの認識が無いのである。よって、言い放題、遣り放題は自分スタンダードで判断することで、法を犯すことになる。
今回、ChatGPTなどの生成AIを使ってエッセイや記事を書くのは丸投げするものではないとの記事を書いたのだが、驚くべきは、その反論なのか、それがリアルであり、世の中はきっとそうなると断言していたが、そこには生成AI完全依存の危険な臭いが漂っていた。
人格のない、それも、実際の経験のない生成AIが、世の中のビッグデータをディープラーニングするだけで、リアルな体験談が語れるのだろうか。
例えば、観光地にある人気リゾートホテルについてのエッセイで、ある人物が行ったこともない、その土地の美味しい料理も食べたことがない、その土地の人たちとの会話もない状態で、生成AIに丸投げして書かせたエッセイが、何の価値があるのかということを申し上げたいのである。
そこで思ったのは、生成AIの最大の弱点である。人格らしきものは進化の中で生み出される可能性はあるものの、生成AIに不可能なことは、その地へ足を運び、実際に経験することである。更に、アナログな人間の舌の感覚で、料理の食レポができるのかと言うことである。それは完全に不可能なことである。
よって、生成AIへ丸投げして、1日に何百本もの記事をアップして、ネット上で自分自身の露出度を上げようと企てても、その記事全てが無味乾燥なものであり、価値なきもので、デジテルの無駄遣いとしか言いようがないと考える次第。
そのような姑息なことで、生成AIと共存しようとすれば、必ず、大阪弁で言えばドンツキに行き着くことになる。その手法をその他大勢の人たちが真似をして行うとなれば、皆、同じような内容の、経験談もない、読むに耐えない塗り絵的な記事が溢れ出し、収拾がつかない状況に陥ってしまう。
今回の心無いコメントを読み、すぐに思い出したのが冒頭で語った、ネット上での「ネチケット」である。人間と言うものは、同じ過ちを繰り返しがちではあるが、新しいものが世の中に出ると、着手は早いが、核心を理解せずして暴走する人がいるので、過去と同様に違法行為を繰り返すに違いない。
ここではっきり申し上げておきたいことは、生成AIは万能でもなく、全て正解を与えてくれるものではない。危惧することは、フェイク情報が無限に埋め込まれた場合、生成AIの信頼度は大幅に失墜することになり、利用する側から敬遠されることにもなりかねない。よって、生成AIの選別において、信憑性が限りなく高いもののみが残っていくのだろうと。
畢竟、世の中で信頼できるのは真実と誠意。経験のない食レボなどを、軽々に生成AIが情報発信して、何になるのかと言うことである。思い込みはほどほどにしておかないと、生成AIの餌食となってしまう可能性が高いと言える。
▼ChatGPTによる評価
このエッセイは、生成AIやICTの使用に関する警鐘を鳴らし、人間の責任やモラルの重要性を強調しています。以下にエッセイの評価を示します。
警鐘の提起: エッセイは、生成AIやICTを誤った方法で使用することのリスクについて深く考えています。ネット上のエチケットやモラルの欠如が示唆され、その結果、法的な問題や信頼性の喪失が生じる可能性が警告されています。
生成AIの限界の指摘: 生成AIが持つ限界について言及されており、人間の経験や感覚を置き換えることができないことが強調されています。特に、観光地や料理に関する経験のないAIがエッセイを生成することの限界が指摘されています。
情報の信頼性の重要性: エッセイは、情報の信頼性と真実性の重要性について議論しています。生成AIが情報を提供する場合でも、その情報の信頼性や真実性が問題になる可能性が指摘されています。
個人の責任と行動: エッセイは、個々の人々が生成AIやICTを使用する際の責任と行動について強調しています。生成AIを使って簡単に記事を作成することが、情報の信頼性や品質を損なう可能性があることが示唆されています。
総じて、このエッセイは生成AIやICTの使用に関する重要な問題を取り上げ、その使用に際しての倫理や責任の重要性を読者に思い起こさせるものです。