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熊本弁「すんまっせ〜ん」の真意は!?

 時折、会議などの定刻を過ぎて遅刻した人間が、大きな声で「すんまっせ〜ん」と遠くから叫んで走ってくるところをよく見掛ける。

 「すんまっせん」は、「すみません」、「申し訳ありません」、「ごめんなさい」という謝罪を表すものだが、大声で「すんまっせ〜ん」と言うのは、謝罪というよりも、自分の心の中では迷惑をかけてしまった他者から咎められることはなく、ご挨拶程度の言葉として発していることになる。

 それも、笑いながら「すんまっせ〜ん」と言われると、反省もなく、相手に自分の存在を高らかに知らせるだけで、謝罪とはかなりニュアンスが異なる合言葉のように思えてならない。明らかに、自らの非の自覚はあるものの、自己主張の掛け言葉でしかない訳だ。

 先日も電話で、ある人物へ或る物が送られてきたかの確認をしたが、車の運転中にて電波が切れる可能性がある云々と言葉を挟みながら、
「すんまっせ〜ん」と何度も叫ぶ。ハンズフリーで話しているのは理解できるが、何が「すんまっせ〜ん」なのか理解に苦しむ。

 「すんまっせ〜ん」が本当に猛省の上での謝罪の言葉として伝えたいのであれば、その経緯をしっかりと説明し、失念していた事実を認め、迷惑をかけたことへの謝罪は、「すんまっせ〜ん」ではなく、「大変、申し訳ないです」である。

 「すんまっせ〜ん」は、近しい友人などで慣例化した使い方をする方言であるが故に、安易に大声で「すんまっせ〜ん」と放ってしまうと、曖昧な謝罪に受け止められ、逆に印象を悪くする。

 その人の性格や日頃からの癖なのかも知れないが、何でもかんでも「すんまっせ〜ん」の一言で事を済ますところが、配慮不足と指摘を受けても仕方ない。残念ながら、民度の低さを露呈しているだけの話である。

 謝罪の心を相手に伝えるのは、容易ではない。先日の言い訳の中に、仕事がいっぱいいっぱいで連絡するのが遅くなったと言うが、「ゴルフなどで遊ぶ暇があるのならば、電話は1分でできる!」と釘を刺したのであった。

 その配送されたものには信書が入っているので、尚更のこと。失礼極まりない対応であることは明白であるにも関わらず、配慮なき「すんまっせ〜ん」で済まそうとするのは如何なものかと、誠意を感じることはなかった。

 裏を返せば、その程度の受け止め方である訳で、すこぶる上から目線の勘違いであり、気の無い「すんまっせ〜ん」の真意がバレバレなのに気付かぬところもまた、見識の低さを物語っているように思えてならない。


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、熊本弁の「すんまっせ〜ん」という言葉が、謝罪の言葉としての本来の意味を逸脱し、軽々しく使われていることに対する著者の違和感と批判を述べています。特に、謝罪の言葉が相手への配慮や反省を伴わず、ただの習慣的な挨拶のように使われてしまっていることに対して、深い不満を感じていることが伝わります。

まず、「すんまっせ〜ん」が謝罪として使われる場面において、実際には相手に対する敬意や反省が感じられないことが問題とされています。特に、笑いながらや大声で発せられるこの言葉が、謝罪ではなく自分の存在をアピールするだけの表現に陥っていると指摘しています。この「自分中心」の態度が、著者にとっては非常に無責任で不誠実なものと映っているようです。

さらに、具体的な例として、電話でのやり取りや遅れた確認作業の際に「すんまっせ〜ん」と繰り返されるシーンが紹介されています。この状況においても、著者は相手の「謝罪」の言葉に対して信憑性や真摯さが欠けていることを感じ取り、不快感を覚えています。特に、仕事での重要な連絡を怠りながらも、ゴルフなどの遊びには時間を割いていることに対する苛立ちが描かれています。

エッセイ全体を通じて、著者は謝罪の言葉が単なる形式的なもので終わるのではなく、実際に反省や配慮が込められたものでなければならないと強調しています。「すんまっせ〜ん」という言葉の使い方が、相手に対する誠実さを欠いた態度を表している場合、むしろ逆効果であり、相手に不快な印象を与えるという点が強調されています。

結局、謝罪はただ言葉を発するだけでなく、その背景にある態度や行動が大事であり、熊本弁の「すんまっせ〜ん」を安易に使うことが謝罪の本質を損なっているとする視点が印象的です。

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西田親生@D&L
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