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フジテレビだけなのか!?

 昭和の時代は、今で言う、パワハラやセクハラは日常茶飯事の時代であり、今回のフジテレビ騒動が、フジテレビだけなのか!?と疑義の念が脳内に充満してくる。

 果たして、矛先を向けたマスコミやスポンサー企業などを検証すれば、どこもかしこに綻びが出てくるのではないかと考えるのである。

 兎に角、日本のマスコミ報道は、右へ倣えにて、一企業に集中し、他の事案に対しては希薄な報道に切り替わるのだが、どこに中立公正なるスタンスがあり、ジャーナリズムが存在しているのか、首を傾げてしまう。

 フジテレビ騒動に対して、攻める(詰問する)側が全て清廉潔白であると豪語できるのだろうか。明日は我が身として、芸能界とのしがらみのあるマスコミや広告代理店、その他スポンサー企業も同様に、メスを入れては如何なものかと。

 自らを神棚に上げて、綻びが出た企業に対して、集中攻撃を行うマスコミと似非マスコミ。一企業の役員や社員の失態に対して、引責辞任を求めることが目的ではないはずだが、どうしても、矛先は一社グループ役員に向けられている。

 今の時代であるからこそ言える話であるが、これまでマスコミ各社、広告代理店各社、その他スポンサー企業等々、全てが身の潔白を証明できるのであれば、とことんフジテレビに攻め入ってもらいたい。

 告発がなければ、隠蔽された事案がどれほどあるのか?特に、弱者を恫喝したり利用したりで、被害者は無数に存在しているはずである。そんなこんなを考えていると、すこぶる今回の騒動について、懐疑的に受け止めざるを得ない。氷山の一角でしかないはずだ。

 明日は我が身ならず、昨日も我が身「以下同文」である企業が存在するとなれば、日本全体が腐った状態にて、互いに黙認する中で、被害者だけが表舞台から消え去り、悪意を持って弱者を利用してきたところのみ、生き延びているに過ぎない。

 東京の或る画廊に勤めていた人の言葉が今でも記憶に残っている。この場にて、是非、ご紹介したいと思う。それは、以下のような内容であった。

 「画廊では絵画や書など、芸術作品が展示され、多くの方々が来場されます。或る日、新進気鋭の女流作家の作品展があった時のこと。突然、高齢者の男性が来場されました。業界の重鎮なのか知りませんが。唐突に、その男性が女性作家に向かって、自分がパトロンになるからと言い寄ったのです。世の中では、女性の枕営業と揶揄する人も多いけれども、男女に関係なく、このような世界があるのかと、血の気がスッと引いたことを思い出します。」と。

 何とも、女性蔑視、性差別が堂々と行われている日本であるが故に、昔から存在していた訳で、フジテレビ騒動と同様に、弱者恫喝、パワハラ、セクハラなど、現在どの業界にもありはしないかと邪推してしまう。大阪地検検事正セクハラ事件も同様に、女性をモノとして考え、道具のように粗野に扱う、人格欠損の輩があまりにも多いことに、愕然とするのである。

 芸能人や有名人として表では善人ぶっている人間が、どれほどいるのかと考えるだけで、敬愛の念などすっ飛んでしまうほどだ。ファンになろうとも思わない。表と裏の顔にギャップがある人物であれば、尚更のこと。

 最後に、上記の画廊に勤めていた人の言葉に「男女に関係なく」という言葉が全てを物語っており、今でも魚の骨が喉に刺さった状態にて、痛さを堪えて、目を瞑り、呑み込むことができないのである。


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、日本社会におけるパワハラやセクハラ、弱者の恫喝といった構造的な問題を鋭く指摘しています。フジテレビの騒動をきっかけに、より広範な視点で他の業界や組織、さらには社会全体における問題を追求する姿勢が強く現れています。以下に、エッセイの感想を詳述します。


1. 視点の多様性と問いかけの重要性

エッセイは単にフジテレビに対する批判ではなく、他のメディアやスポンサー企業、さらには社会全体に広がる「綻び」を指摘しています。この「明日は我が身」という表現は、単に警鐘を鳴らすだけでなく、自己検証の必要性を促すものです。「右へ倣え」の報道姿勢や、一企業への集中攻撃という現象を批判することで、真の中立性や公平性がどこにあるのかを問いかけています。このような問いかけは、読者に自己の立場や意識を見直すきっかけを与えるでしょう。


2. 具体的なエピソードの力

画廊でのエピソードがエッセイ全体の骨格を強化しています。このエピソードは、日本社会における性差別や弱者利用の現実を象徴的に描き出しています。「男女に関係なく」という言葉は、性別を超えた問題の普遍性を示しており、パワハラやセクハラが単に特定の性に限られないことを明確にしています。この具体例は、読者に問題を身近に感じさせ、社会の構造的な欠陥について考えさせる力を持っています。


3. 感情の共有と社会的共感の喚起

「喉に魚の骨が刺さっていて、痛さを堪えて」という表現は、筆者の強い感情を象徴しています。これは、単なる批判に留まらず、問題が自分自身にとってどれほど深刻であるかを伝えるものです。このような感情表現は読者に共感を呼び起こし、エッセイの主張を強く印象付ける役割を果たしています。


4. 倫理的矛盾と日本社会の課題

エッセイは、表面的には善人を装いながらも裏では倫理に反する行為を行う人々への批判を含んでいます。これにより、表と裏の二面性が社会全体に蔓延している現状を浮き彫りにしています。筆者は「人格欠損の輩が多い」と強い言葉で非難していますが、この言葉は社会全体に対する失望感を象徴しており、同時に変化への期待も含んでいるように感じられます。


5. まとめとしての力強いメッセージ

エッセイ全体を通じて、特定の問題に対する表面的な対応だけでなく、社会全体における本質的な変革の必要性を訴えています。問題はフジテレビだけではなく、社会の至る所に存在しており、その解決には個々の意識改革が不可欠であるというメッセージが力強く伝わってきます。


総評として、このエッセイは単なる批判を超え、日本社会の根幹にある問題を鋭く問いかける作品です。具体的なエピソードを交えながら感情的かつ論理的に展開されており、読者に強い印象を与えます。また、過去の社会的構造と現在の課題をリンクさせることで、問題の根深さと普遍性を浮き彫りにしています。

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西田親生@D&L
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