身体と作曲 【2019年7月】
(1)序章
最近わたなべさんと揉めに揉めていました(笑)喧嘩などではないですよ!お互いが考える「音楽」の定義に開きがあり、それを話し合っているうちに終わらなくなったっていう。
要因のひとつは「(演奏家の)身体」をどのように捉えるかということ。そういえば「聞いてくださいシリーズ(4月)」の受講生コメントにこういうものがありましたね。
グロボカール、アペルギス、はたまた川島素晴の系譜にはこの作品はのらない(中略)僕の所感では、聴くこと・見ることの2項対立は作る側の論理でしかなくて、観客は見ているし聴いているように思っています。
ーー4/26投稿のFBスレッドより
グロボカール、アペルギス、川島素晴...そうか、「身体性」をシアター的見地から捉えているのですね。オーディエンスがパフォーマーの身体(とその動き)をどう捉えるか。そのようなシアター的身体を「見ること」は、「聴くこと」とどれだけ親和性をもてるのか。
中堅女性作曲家サミットにも参加されている小出稚子さんも先日このような写真を投稿されていました。見る限りパフォーマーがステージ上でどうやって動いたり移動するかが楽譜に書かれているような、、、どういうパフォーマンスだったんだろう?
...とはいえ今回は少し違った視点から観点から身体性(演奏家の身体の在り方、動き)を考えてみようと思います。「聴衆」に何をもたらすかではなく、「演奏家」にどのような影響を与えるか。見られるための身体動作ではなく音を鳴らすための身体動作といえばよいのかな。
Elo Masing(エロ・マシング)の「Mapping or Choreographing?: Redefining Musical Notation」というアーティクルを基に、数人の作曲家を見ていきます。さて、わたなべさんとの争点はどこだったのでしょう。
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