外国人とのコミュニケーション!言葉の先にある魔法の使い方
言葉とはなんと曖昧なものなのだろうと思う。
人は、主に曖昧な情報を元にコミュニケーションを無意識にしていると感じる。言葉の先にある目線、仕草、オーラ、波動、気持ち...
言葉はそれらのサポート役に過ぎないと。
先日もゲストを迎えた。
夫婦で訪れてくれた奥さんの方は、YouTubeを中心に映像ディレクターをしていると言って、GoProやマイク付きのデジカメを駆使して、熱心に体験の様子を撮影して行ってくれていた。
しかしながら、私の英語は相変わらずの中学1年生レベル。さらに今回は、クッション役の子供や夫たちが外出中で一人でのホストとなっていた。
「大丈夫かな?」当然不安はあったけど、それでも、いつものように誠心誠意ホストを楽しんだ。
拙い英語で会話し、翻訳アプリも駆使、ジェスチャーは当たり前。甘めのスパークリングワインが好きと言っていたから、発泡日本酒の「澪」を振る舞って少しだけお酒の力も借りた。
なんと楽しい時間だっただろう。
同じ年くらいだからだろうか?インターネットメディアを運営をしてるからセンスが似てるから?いつのまにか意気投合して、帰り際にはハグしてこうして写真を撮ったり、自然にしていた。別れが名残惜しかった。
「勇気や希望や 絆とかの魔法 使い道もなく オトナは眼を背ける」というRADWIMPSの歌詞が好きだ。
言葉がなくても分かり合えてしまうのは
人間が本来持ち合わせてる魔法の一種なのだと思う。
その魔法を使えるようになる手段はただ一つ
相手の前でこころを裸にするということ
鎧を脱いで裸になったら、大抵の場合相手も裸になってくれる。
お酒の席ではよく行われていることだ。それは、相手が外国人だろうが、日本人だろうが、男だろうが、女だろうが、子どもだろうが、大人だろうが一切関係がない。
「撃たれるかも?」と鎧を着た瞬間に向こうも鎧を着てしまうのだから、人間は面白い。鎧を脱いで生きるというのは、人生に奇跡や必然を呼び寄せる魔法でもあると私は思っている。より楽しく生きる秘策なのだ。